『終の住処』磯崎憲一郎

いっけん普通の純文学−近代的自我の独我的自分語りのようにみえてそうではない。この作家はいつも、とても長いパースペクティブで、物事を捉えようとしているのではないか。とても長いというのは、たんに近代史とか現代史という話ではなく、人類史、地球史的な。だからこの「住処」が途中で出てくるイグアナではないが、一個の個体生物の住処のように感じられるのだ。(たとえば、生物の生態について語るとき、「家」とかではなく「住処」という言葉が多く使われたりしないか?)
家族や情事といった文学的な主題に馴染みやすい出来事とのあいだに、ところどころで主人公の勤め先の状況とかが挟まれ、円高がどうであるとか製薬業界がどうであるとか語られるのだが、それらは人間が動かす歴史というより、主人公はもちろん人間の思惑とは関係なくうごく環境の変化のごとくに感じられる。歴史的な視点からは相対化しづらい近代を、もっと広いところから相対化しているかのようなのだ。かといって主人公が存在として矮小化されているわけでもない。こういう所にこの作家の特異性を感じる。ちょっと微細かもしれないが。