『たそがれ刻はにぎやかに』木村紅美

青年と、そして彼から一世代ジャンプした老女との交流を描く。互いに異なる思惑から近づいた筈が、それとなく心も通わせるかのようになり、とちょっと映画じみた感じもする。それにしても、この作家にかかるとどんな題材も明るさを伴って料理されてしまうのだろうか。そんな感慨を抱いた。感情移入しやすい位置にいる人物はみな平板なただの善人なんである。老年のものを騙すのだからそこには、ひとつ間違えばオレオレにも似た殺伐さが顔を見せるのかと思いきや、それもなければ緊迫感もほとんど感じない。そして、この青年のプア層としてのあせりもなんか言葉だけのように感じられるし、それ以上に老女の自害までも考える絶望感も余りこちらに訴えてこない。
更に物語のここが肝心だと思うのだが、例えばカレーを何時間もかけて昔の味のように作るという老年らしい頑迷さと、それゆえに世間からもたらされる疎外の残酷さと、何よりその正当さがここには足りない。いま少しわれわれに近しいものではないと。つまりわれわれもまた日常生活においてある局面では老年にたいして残酷に振舞うことも結構あるはずで、またそうせざるを得ないような非常にいやらしい頑迷さに接した事もあるはずで、簡単にどちらに立てるようなものではないと思ってしまうからである。歳をとってしまうことの中には確実に外見だけではない醜さがあると思うのだ。
かように呑気というかのんびりというか、そういう雰囲気になってしまうのも持ち味なのかもしれないが、いま少し驚きが欲しい。