『ブーゲンビリア号の船長』青来有一

最後の方になってやっと気付いたのだが、これは以前読んだ『夢の栓』という話の外伝みたいなものである。よほどこのモチーフに執着があるのだろう。
ただそこに至るまでの話がなんとも退屈。基本的には、幼子をなくした夫婦がその幼子をいかに真の意味で葬り去るかというのがテーマなのだろうが、宗教的認識をそこに絡めたせいで、なんとも人物が浅くなってしまった印象なのだ。
夫の方はといえば、無宗教に至るにいたった動機もやや浅薄だし、なぜ無宗教なのに土着的な信仰を恐れるかという齟齬に関しても、徹底して問い詰める事をしない。かといって、そのしない事のなかに「宗教にたいして浅薄な現代人」みたいなものが読み取れる訳でもなく、ずっと色々自分に問いてはいるのだ。
方や妻は、キリスト者のくせに、幼子が何か示してくれているとか、また幼子の亡霊の気配に夢中になったりしている。疑問なんだが、こんなふうにイエスが為すこと以外の超常現象を易々と認めてしまうキリスト者って、そんなにいるものなのかなあ。細木カズコじゃないんだから。
かように浅い分、最後の方での夫婦の和解も、何一つ両者の宗教的見解は一致してはいないのに、妥協が簡単に訪れる。なんかテレビドラマみたいな綺麗さ。で、このまま終わるかと思いきや、例の夢の栓の話になるのだが、幼子の友達だった人間が南の島へ行ったというだけでどうしてそんなに感激できるのかも、良く分からないまま。