『淫震度8』木下古栗

抜群に面白いものしか決して書かない小説家、と私の中では既になってしまっている木下古栗。コンスタントに、というか、その内容の密度からいえば、ハイペースと言っても良いくらいの間隔で作品が届けられる。本読みとしてなんとも幸せなことで、本人にはもちろん、この巡りあわせにも感謝したい。
とはいえ、今回も書かれている内容というか、ここで起こる出来事はいつもとたいして変わる訳でもない。衆人の面前でのSEX、しかも男性同士。木下古栗らしさ全開であり、もっと運転に例えるならアクセルは全開、ブレーキは思い切り踏み込み、ハンドルは切りまくり、ちょっとした雨でもワイパー振りまくりみたいな闇雲なパワーに溢れている。しかもつい闇雲とか形容したが、非常に意識的にそれをやっていて、一語一語に至るまでブレが無い。今作などは、とくに前半の部分でそれを感じさせ、一人の中年男の意識に徹底的に食い下がり、昔の古井由吉か、というくらいの描写になっている(←最近の古井さんのは余り読んでないのでこんな表現)。まわりくどい長文も多く、読みやすくはもちろん無いんだけど、言葉使いが正確でありその配置もまた考えつくされているのだろう、意味が掴めずずっと立ち止まってしまう事など殆どない。
そしてまた名作『杳子』がそうであったように、ここでの狂気は理性と紙一重、いやその一重の紙すらも無いくらい隣り合わせであって、理性のもとに全てがおかしくなっていく。いきなり妄想的な妄想が飛び出し、そういう人物ということで我々の外側にそれを置かない。
そう。我々は誰もが、自分を狂っていないなどと断言できやしないのである。狂気が筋道立てて紙に起こせないように、我々が理性的と思っている自分の意識だって、紙に起こせない。いや、起こせるのだろうけど、起こしつくすことはできない。この作品のように、いくら徹底的に入っていき、徹底的に入ることでひとつの意識の実相を明らかにしたように見えて、紙一重で近づけないものが残る。むろん残るとはいえ、その部分に到達しようとせず、たとえば安易に妄想を出現させることに頼ってしまっては、それは言葉の放棄に近いものがあるだろう。(もちろん中途半端にでなければ放棄したっていいし、そういう人間を描く文学があったっていいのだけど。)例え意識を語りつくすところまで達成できなくても、近づく動きを止めてしまう事ができない所まで、我々は言葉によって意識をかたち作られている。これはもう、言語を持つものの宿命みたいなものではないだろうか、と思えたりもする。
なんて事ばかり書いていると、今作が真面目なものであって、あまり面白さには溢れていないかのようになっちゃうので、いったん止め。先刻言ったように今作で起こるのも木下古栗らしい出来事ばかりなのだが、いつも似たような事ばかり書いていて飽きさせないというのも凄いよな、と思う。似たようなとはいいつつも「同じような」ではなくて、着想のバリエーションが豊富で想像力があり、登場人物に予想もつかないとんでもないことやらせるからなあ。作品内の会話では事実こそ重要であって、想像力なんてクソとか書いているけど。
今作は、駅前で尋ね人として自分の写真を配る美女という訳の分からなさに一番やられた。そしてその趣向を凝らしたビラの数々。米国旗の星のそれぞれを顔に置き換えたもの、ってなんじゃそりゃ、こんなの通勤電車じゃ読めないよ。「性のバーゲンセールで〜試着」あたりでも盛大に笑わせて頂いたが、私が一番おかしいと思ったのは、この中年男性が別れることになった妻までもが妖艶な魅力に溢れて、の部分だ。そこまでするか、とは思うが、するのが木下古栗なんだよね。