『砂漠の雪』稲葉真弓

女の友情もの。とくにこうして世間ずれした女性達の友情ものは、世間ずれしたくとも出来ない世の社会人文学好きにたいして一定の需要はあるのだろう。たとえばファンタジー映画が日常を忘れさせてくれるように。
それはそれで否定してもしかたのない部分はあると思うのだが、しかし、この作品はカマトト純文学とでも名づけてみたい気分になった。だって、独身ひとり暮らしの妙齢の婦人が妊婦の絵ばかり壁一面に執念深く描いているなんて事に出会えば、こりゃあ何かあるぞと誰もが思うだろうし、そこで思わぬフリをしてるからである。いくら相手が一風変わった人だからとはいえ、どうみたって彼女の過去にそれなりの「出来事」があろう、そこに何らかの痛みが隠れているだろうなんて事は、とくに人の痛みに人一倍敏感でなくても分かろうというものではないか。何で妊婦と尋ねてたいした理由はないと答えられても、そんな事はないだろうと、恐らくなんかあっても容易に言えないのだろうなあ、となるだろう。
しかも、陽に透けた相手の体の痩せ細りぶりにショックを受けるくらい人の痛みに敏感なのだろうから、これはカマトト以外の何ものでもないよ。こういう小説の根幹の部分において主人公の感受性が不可解に鈍いのは、致命的な欠陥とすら思える。この作品は結局、ああ美しき哉友情物語を描きたいが為に、その物語のために最初から書くべき事を避け不自然な隠蔽をしていると言っても良いと思うのだ。
結局この主人公はその自分のカマトトぶりのせいで友人の裏の顔に少しも気付けず、唐突な別れに至ってしまうのだが、そうなってしまっても、それでもたいした反省が起こるわけでもない。このように、この友情物語での主人公に終始漂うのは自己を肯定していく気分だ。これにもウンザリ。妊婦ばかり書く女性に出会っても、また、彼女と突然別れることになっても、何も変わることが無い。同じマンションに住み続け、ラクダのおもちゃも捨てなければ、過去の自分を苦しめたものを見直すのではなく、再度否定しなおし、あるいは否定することを更に正当化していく。ああなんて私はかわいそうで、彼女もかわいそう、そして二人とも正しいのだろう、と言われてもね。ああそうですかとなる。
また、これは小さなことではあるが、家族からさんざん苛められて手も足も出なかったほど主人公は気が弱いのに、付き合っていた男性のちょっとした一言でその男性を軽々しく蹴飛ばし、すっぱり別れられることが出来るというのもよく分からなかったなあ。
小説としてみれば、、堕胎の原因となった男性へストーカーをしていたとかいつのまにか写真をとっていたとか、予想できなかった事の叙述のタイミングとか、導入部のこれは何してるのだろうと思わせる所など、読ませる技術はしっかりしているのではないかとは思う。逆にいえば惜しい小説であり、たとえば、兄というもっとも身近な存在が全く不可解な一個の他人でしかない容貌をもつという、その描写などは怖さをある程度伝えるものがあり、この家族との関わりなどはもっと読みたかった。