『ここに消えない会話がある』山崎ナオコーラ

このところ文芸誌で名前を見ない月は無いといっても良いくらいの売れっ子と化しているナオコーラであるが、正直その良さがいまいちピンと来ない。もっと主体的に言うなら、私に理解できない良さがきっとあるのだろうな、とは思う。私がなんとか理解できるのは、彼女の書くものには独特の感覚があるという事。
今思いついたが、「間隔」と書いてもいいかもしれない。主人公の多くは私とあなたの間の距離に関して非常にセンシティブで、その距離を詰めよう詰めようと思っているのに詰められないもどかしさ、みたいなものが作品に色濃く漂う。
そして、閉塞したような回りくどい文体を使うことなく、単純な言い回しを好んで使う。ここまで単純な文章を綴れるというのも、逆の意味で言葉というものに対する強い批評性を彼女が宿している事の証明であって、たとえば文芸誌の新人賞応募作品などで程度の低いものはいかにも文学気取りの文章で埋められていて、ウンザリさせられたりするものだ。
今回は会社勤めのサラリーマンの日々を追ったもので、まず感じるのはやはりその単純さ。空疎で表面的なやりとりにみえて、その実、裏面もあまりない、みたいな。基本、終電帰りのハードワークだし、苦情ありの重大なミスありでいながら、緊迫も悲壮もあまり感じさせず、サークル活動の延長のような雰囲気さえもが漂う。このコミュニケーションの空気を例えていうなら、今がちょうどその時期であるが、新人研修時の新人仲間との最初の一週間の雰囲気といった感じ。
私はしかし、リアリティが不足している、だから悪い、だからこの作品がダメとまでは言いたくない。この空疎で表面的な裏のない明るさみたいなものは、今の若い人のあいだに流れる空気みたいなものの一面を、拡大するかたちで確実に伝えているのではないか、と感じるからだ。このナイーブさは、ゆとり教育だののせいばかりとは言わないが、ある程度豊かさが行き渡ってしまった社会のひとつの帰結なのかもしれない。この攻撃性の無さといったものは。
ひとつ残念なのは、主人公が生きるという事に対してペシミスティックな理由が両親の不仲という昔ながらのもので、なんだかはっきりしすぎていること。人間さすがにここまで単純でありうるだろうか、とどうしても感じてしまう。