『傘と長靴』川崎徹

いつも川崎徹の小説を読むと思うのだけれど、とりつくしまがない、という感じ。違う言い方をすると、この人はいったい何のために書いているのだろう、といつも感じてしまう。
たしか今まで2作くらい読んでいるはずだが、殆ど何も残っていない。平明な出来事を平明な感慨をもって眺めている様を平明な文章で綴っているだけ。そんな印象しか残っていない。平明は悪く表現するなら凡庸か。
今作も、父親が見知らぬ他人に見えてしまうということが中心のモチーフなのだが、そのモチーフじたいに主人公がそれほど関心をもって見ていない気配すら漂ってくる。どこか遠いのだ、作者自身が小説に対して。
この小説の主人公が、事物に対して遠いように。父親が他人のように見えるのは何より自分自身の問題であって、父親の資質の問題ではないだろう。自分がそのように見ているから、そうなのだ。そしてこの主人公は、そういう自分に対してだらしなく肯定するだけ。それは、私が猫に餌をやっているのは誰も知らないなどと思いつつ、自転車をこぐ所によく表れている。
別に純文学の主人公の生き方に文句をつけても詮が無いのだが、こうも変わらない自分を変わらないでいいのだみたいな態度に出くわすと、何のために書くのと言いたくなってもくるのだ。主人公は色んな知り合いに猫の実情を話してカンパをもらってもいいし、浮浪者を猫の件でも問い詰めてもいいじゃないか、と思う。そのとき、父への感慨は少しは変わってくるのではないか。
ところで、猫とのコミュニケーションについて余り関心のない私は、個々の猫の生態を書いたところで若干ウンザリしたものの我慢できたが、流石にカラスは知能があるから嫉妬心云々の記述を目にしたときは、いい加減にしてくれと思ったわ。