『二匹の狐と一本の楠』米谷ふみ子

意味不明な内容。
米谷ふみ子という作家がどれだけ偉大なのか私には分からないが、この人がどういう場所に住んでいてどういう付き合いがあったのか全く関心が持てないのだけど。なんでこんな事を知らされねばならないのか良く分からない。実名で色々有名な人が出てくるので実話だと思われるけれども、とくに話として変わった出来事や、変わった人が出てくるわけでもない。多くの有名人と知り合いであることは分かったのだが。これがイラク戦争に反対するような人の書いたものでなければ間違いなく[紙の無駄]だ。
それにしたって、この人の反戦姿勢の独善ぶりにはウンザリする。すべて軍部と政府が悪い、一般人はみんな悪くないだって彼らがだましたんだから・・・、それはないだろう。これは生まれ育った時期にも左右される訳で米谷氏のように被害者体験しかない人は仕方ないのかもしれないが、少なくとも昭和10年〜20年に成年に達していた人物であればこんな言い草はできやしないだろう。
東條の前に首相をしていた近衛あたりも含めてアメリカとの和平や中国戦線の縮小を模索していた人たちは、なぜ断念せざるをえなかったか。それは、和平だのそんな弱気な事なんかしたら一般大衆の不満が爆発しちゃうという懸念が大きかったからである。
当時の一般大衆といえば、やれ南京が落ちたシンガポールが落ちたといえば町へ繰り出し祝いの声を上げ、真珠湾攻撃のときなどは涙も流さんばかりに喜んだのである。ついにやってくれた!ってね。別に政府がパレードへの参加を強制したりした訳でもない。
それに女性たち、妻や母たちが、息子や夫の事を思い戦争を憂いていたかというとぜんっぜんそんな事はなく、愛国婦人会だの国防婦人会だのを率先して組織して、たすきなんか作って気合入れ、いかに気持ちよく高揚した気分で男たちを戦地に送り出せるかどうか一所懸命運動していたのだ。