『おと・どけ・もの』多和田葉子

いかにも言葉について意識的な人が書いた小説というのがストレートに出ている。単語が死んでいくいわゆる死語についてふれた部分とか、意識的であるがゆえに面白く書けている部分がある一方、意識的であるがゆえにかえって窮屈になっている部分がある。いやむしろ窮屈という印象の方が強いだろうか。
しかしこの窮屈さこそ、無意味な自然さよりも引き受けるべき事だと思う。たまに無造作にいかにも文学的な修辞を使っている小説を読むと特にそう思う。おそらくそういう人にとってはそれを使うことが自然にまでなってしまっているのだろうが、その自然は共有を拒んでいる。