『ボルドーの義兄』多和田葉子

もう既にかなり評価の定まった人なので、今更[面白い]もないかなと読んでいたときの正直な気分を評価にしたが、小説としてはやはり水準が高い。
エピソードごとにぶつ切りされた著述なので、どうしても読むほうもゆっくりとしたかみ締めるような読み方をしていくのだが、そのせいで言及されたエピソードや断片の記憶が少し途切れかかる。その忘れるか忘れないかの絶妙なタイミングで同じエピソードや断片が違う角度から描写され、それらの結びつきを確かめるために再度前に戻って読み返したりする。つまりこの小説、一度しか読んでいないのに何度も読まされてしまうのである。これこそこれまであまり見ることのなかったこの小説の特徴であり、非常に技巧的な感じを受けた。しかも前述のようにその再度の語られのタイミングが絶妙で、計算高いという感じ。
ここまで見事だとたしかに面白いなと思う反面、疲れを感じたことも確か。それにアート志向で、かつヨーロッパにて何かをしようとしているような若い女性などというのも、一番共感を覚えないタイプであり、それも疲れさせた所があるかもしれない。
残念なのは、フランス語を習いたくないという主題がいまいち響いてこなかったところで、いろいろなエピソードや人物の面白さのせいで霞んでしまったかのよう。とくに主人公が当初、西アフリカでフランス語を習いたいと思っていたことや、「フランス語を教えます」という広告でフランス語を習いに行って出てきたのがアフリカ人であったエピソードのその後が殆ど描かれていないのは淋しかった。最初主人公が同居してたフランス女性のようにいかにもヨーロッパ中心主義っぽい人たちとの対比としても面白かったように思うのだが。義兄が旅立つベトナムもそうだが、広大な植民地を持ち、未だにフランス語を話す人が相当いるという現実にもう少し迫るところがあっても面白かった。主人公がもしアフリカ人にフランス語を習っていたとしたら、それはフランス人から習う事と違うことがあるのかないのか。違わないとしたらそれはどういう事態なのか。フランス語を習うということは支配するという立場に立つことなのか・・・。
ところで次の号の鼎談で宇野常寛がこの小説について、水村美苗の最近の仕事と関連して、「グローバル化への対応問題としての図式的な議論が良くも悪くも先に立つ」とか奇妙な事をいっている。何が「良くも悪くも」なんだろうと呆れる。そういう言い方は、この小説を前にして皆がそんな図式を持ち出すのだったら成り立つことであって、どこが図式的なの?と鼎談で残り2人に言われてるんだから、少しも成り立っていない。
そもそもそんな図式で物事が割り切れないから、多和田氏は小説を書いているのだろう。「言語に完全な翻訳はありえない」なんてのは分かりきったことで、そんな事を言うがために小説など書くわけが無い。完全な翻訳はありえないが、誤解や勘違いの中でもより分かり合えたりする事があり、同じ言語を話しても必ずしも分かり合える訳ではなくうまく説明できないものが横たわっていたりする。前者の象徴はたとえば男性の身体のにおいに救われたというエピソードだろうし、後者の象徴は、フランス語を教えようとする黒人に、フランス語を教わることができなかったというエピソードだろう。このディスコミュニケーションは何なのだ!?
そもそもグローバリズムというのは、そういう言語間の翻訳不可能性の上をすり抜けていってしまうものだろう。アラビア語圏内の人々がただアラビア語を話していればグローバリズムに抵抗できるのなら、911テロなど起こりはしなかった筈だ。水村美苗だって、日本語が英語に翻訳可能だから日本語が亡びるなんて事は言っていないのではないか。英語に知と富が集まるようになれば、皆がそれを使うことによって廃れるかもしれないと言ってるだけで、日本国内の標準語と方言やアイヌ語などとの関係を思い浮かべれば十分理解できる話なのだが、なんでこんなに誤解されているのだろう。日本語の世界が英語化して吸収されるとかそういう話でなく、日本語の世界が英語世界とは別のところで縮小してしまうという話で、水村が日本語教育を強調するのは何より翻訳不可能ということを身に沁みて分かってるからではないか?