『青瓢箪』宮崎誉子

結論からいえばいつもの宮崎作品。
誰も言わないが、いや言ってるかもしれないが私は未見なのだけど、この作家は、大江賞を受けた某作家などよりもずっと革新的なことをやろうとしているのだ、と思う。この時代を描く上でふさわしい新しいスタイルを確立しようとしている。
要点だけの短い会話、単純でその場限りの感情の露出、感情が連続しないように激しい場面転換、などなど。
音楽に例えるならヒップホップだろう。代わり映えのしない純文学はさしずめクラシックで、意識的な純文学はジャズ。(大衆文学はポップス。)
だからヒップホップが素人目には皆同じようなRPMでどれも同じように聞こえるかのごとく、宮崎作品もいつも同じなのだ。ここにはより直接に伝えようとする確実な意思がある。ヒップホッパーたちがラップというスタイルで直接文句を言うように。
労働は人間を部品のように扱うとよく言われる。労働が単純であれば尚更。そして宮崎はそういう単純労働の現場を好んで描く。部品となってしまうかのような人間を。
今回の作品は、それこそがリアルなのだと、今生きるという事なのだとかなり明確に示した作品と言えるだろう。具体的には終盤の94ページのセリフ。
「なぜなら世の中の綺麗事を忘れさせてくれるからだ。〜」の部分。
だから宮崎作品はたんなるプロレタリア小説ではない。一概に労働を人間否定と否定するような単純なものではないのだ。労働を人間否定と否定したその先にある人間らしさとされるものだって、結局綺麗事じゃねーか、と。いっけん人間らしいホワイトカラーな仕事をしている人たちだって、結局はより大きい世の中の枠組みからすればお前らだって部品じゃねーか、と。何が正社員だ。ローン組んでマンションに住み、休日にはオンワードやワールドの服とユニクロの下着着て、ワゴン車でショッピングモール行って、赤ちゃん本舗やトイザラスで買い物したりスタバでコーヒー飲んだりしてるんだろ、と。