『廃車』松波太郎

残酷だが、上記作品を読んだあとでは、あるいはそうでなくとも、典型的なフリーター小説としか思えない部分がある。木造アパート、コンビニ、そして緩やかな同棲、の世界である。しかし他には見られない個性が全く感じられないわけでもなく、作者は失敗作かも、と自作を評していたが、そうひどくはないと私は思う。
個性というのは、間違っても、いきなり主人公が鮮やかに成功したシーンなども脈絡も無く挿入したりされる所ではない。この小説は要約すれば、中国人留学生とのクルマ売買でトラブった話である。ここまでたいした事が起きないのであれば、かなり他で工夫しないと読ませるものにはならないだろう。そういう理由ででこのようなシーンが挿入されたとは断言しないが、この成功シーンにはまったく脈絡が感じられず、ただ謎めいた部分を配して少しでも小説を複雑なものに見せようとしている程度の意図しか残念ながら感じられないものになってしまっている。
話戻すとこの小説の個性とは、私の考えではこの主人公のキャラクターにこそある。いいかえれば、この個性が無ければこの小説の存在意義はなかったし、また作者の意図もここを描くことにあるのだろう。
主人公はまったくのダメ人間ではない。中途半端に真面目で、また中途半端に従順なのだ。それは中古車屋と交渉するシーンでも修理屋と交渉するシーンでもよく表れているし、なにより主人公は、本来自分がすべきではなかった廃車手続きのためにいそいそと雨の中役所まで行き、順番待ちに耐え、そして傘を間違えられて帰ってくるのだ。(自分の問題でしかないときは雨になると言訳して仕事を休むような人間ではあるが。)
そしてまた、トラブル可能性大のなか無防備に出かけてしっかり殴られるし、付き合ってる相手が横浜で働くようになると、自分も仕事無いのに近くに引っ越したりする。トン汁の肉が牛肉だったりとんかつの肉が小さかったりすることに対する文句、わがままぶりとの対比が面白い。
中古車屋や修理屋、中国人留学生との場面などのように自らの選択が大きな意味を持つような場面。多くの小説の主人公はこういう所で自らの中を問い、そして動くのだが、この小説の主人公はシチュエーションに引きづられるだけ。自動車事故のなかで主人公がなすすべなくクルマであちこち引きづられているシーンがあるのだが、それこそ主人公の生き方の象徴にもなっている。ここには「世界対自分」といった意味での積極的な自我がない。ひきづられる自我しかない。
この従順さと、小さな事にたいするわがままさの落差はしかし、主人公のキャラが統一されていないという事ではない。このどっちつかずな感じ、中途半端な真面目さこそ、リアルなのだ。いわゆる下層の人にじかに接するような機会は、純文学ファンは少ないのかもしれないが、私の経験上、彼らの少なからずが、へんに真面目なのである。まさしくそのへんな真面目さ、従順さがその下層で働くという境遇を招いたんじゃないかと思えるような。そしてまた面白いのは、同時にあることにおいては結構ずる賢かったり、また肝心な事において怠惰だったりもする。そういう実相にこの小説は近づこうとしている。
つまりは、ある意味意欲作ではあるのだ。こういう主人公はどうしても純文学の主人公には適さない面がある。モーレツサラリーマンや企業経営者は純文学の主人公にならず、ダメサラリーマンが主人公になりやすいのと同じだ。純文学の読者は自分と同じような濃密な内面が描かれていることをもって、ヨシとしてしまう。面白いと感じる。逆にいえば、この小説の主人公のようなキャラで面白い話を描くというのは非常にハードルが高い。そこで、たとえば小説的面白さのために、成功シーンや中国人差別についての長々とした言い訳シーンがでてきたりするのだが、残念ながら面白さは感じない。しかしまあ、新人ながらハードルを上げてしまったのだから仕方ないのかもしれない。この意欲を買うならこの小説は買いである。
私はギリギリ買う所までは行かなかった。このブログは面白さ優先というのもあるが、ちょっとした瑕疵も気になった。以前読んだ中村文則の、結局は「世界対自分」でしかない犯罪者小説などよりずっとよかったのだがしかし、大村昆の古看板やバスのオバサン達の格差への言及など、清水博子が文句言うロウワークラスへの気配り的な記述にしか思えない所もあるのである。