『文学の中性名詞−川端康成と坂口安吾から』切通理作

なんか漠とした話が延々と綴られていて、評論の体をなしているとはあまり思えない内容。紙の無駄と紙一重。ある女性作家が少女時代にオナニーをしながら窓の外をみていたことと、「末期の眼」や「もののあはれ」を同列に並べることに、無理はあっても、意味があるようには思えなかった。こんな漠とした共通した感じであれば、なんだって共通してしまいそうなのだ。手出しできない傍観者的描写があれば何だって。
とくに坂口安吾にとって戦争がよそごとであったという記述にたいしては本当?と思ってしまう。よそ事ではなく、自分の命運を果てしなく作用するくらいに考えていたからこそ、それが終わってみればそれとは全く違う命運や、まるで関係ないかのように持続する生命をみて、歓喜の気持ちに、格別書くという気持ちになったのではないか、とか思ったりもするのだが。私も坂口安吾、数作品しか読んでないので大きな事はいえない。
つまりもう少し根拠が欲しい。これでは評論家の思い込みではないかと思われかねない。『新潮』の福田和也の連載のように引用が多いと原稿料稼ぎかと思ってイヤになるが、引用が少ないのも考え物だと思った。