『このあいだ東京でね』青木淳悟

これでも評価は甘め。間違いなくここで言えるのは、文学がこのような作品ばかりになったら、間違いなく私は文学から足を洗うだろうな、という事。岡田利規みたいな小手先の工夫にすぎないようなものと違って、他ではまず見られないような、しかも骨のある志を感じさせるような試みをやっている、その事がどうしても最低評価にできない理由なのだが、このブログの評価基準からすればつまらないものはどうしようもない。
正直この作品を読みながら何度寝てしまったことか。一日に読書に割ける時間が少ないこともあるのだが、読むのに4日くらいかかってるのだ。
この作品は物語どころか、特定の人物を一切登場させずに都会の生活の細部、とくに不動産に関わる事柄を細々と描いているのだが、確かによく調べている。不動産屋のモデルルームにおける買い手・売り手双方の思惑など、多少面白く読める部分も無きにしも非ずではあるが、全体的にはつまらない記述がだらだらと続き、すぐに飽きさせる。
ところで、普通の小説は、こういった不動産の事などはわれわれが生きていくにあたってのたんなる道具に過ぎないものとしてほとんど省みられない。恋愛だの老いだの病気・死などがメインテーマである。しかし実に不動産とかというのは日々われわれの生活を支配する大きなテーマである事はたしかで、どういう所に住むかというのは、生活のかなりの部分を変える出来事である。
なかでも都市というもの様々な価値観の人間が集う場所であるから、不動産に関しても様々な出来事があると思いきや、取得の動機〜モデルルーム訪問〜商談などの段取りや思惑について、典型的な中産階級のそれだけを描いている。しかしその事に違和感がない。どうも不動産という大きな買い物を前にして抜け目のない選択を皆がしようとするものだから、ひとつの典型に集約されてしまうかのようである。
だからなのかもしれないが、不動産を選ぶこと=都市に住むこと・暮らすことそれらの事がひとつの欲望というより、何かに動かされてそうなっているかのようである。美しい公園が隣接されたセキュリティ完備のマンションに住むこと。東京の人々はそれを望んでいるかのように見えて、望まされているようにしか見えない。むかし柄谷の評論で読んだ記憶があるのだが、"欲望とは他者の欲望である"とはよく言ったものである。普通の恋愛小説では、とくに娯楽小説では誰かを好きであることが、実は好きであるふうにさせられている事に過ぎないというのは殆ど見えてこないものだが、不動産の事を描くと途端に、皆が望むから自分も望む、というふうに欲望本来の姿が露になるのである。
私のように価値観を全く共有しない人間にとっては、したがって、ここに淡々と描写されている現実はある意味滑稽ですらある。そしてこの小説は滑稽さだけでなく、果ての見えないかのような都会生活の哀しさを滲み出させるのにある程度成功しているのだが、如何せん、この小説自体までが退屈になってしまっている。都市に生きるという事を精確に反映するとはこういう事なのだろうか。