『奴ら』吉田修一

まずは期待通りの作品であると言うことができる。短編か中篇かといわれれば、その中間、いやむしろどちらかというと短編に近い分量でありながら、充分に面白く、つまり読者を先へ先へといざなってくれる。もともと短編系統はより純文学的色彩が強くなりがちで、私のように文学を生半可にしか理解できてない人にはイマイチ面白くないものが多いのだが、吉田修一は数少ない例外で、この分量でこれだけのものを書ける作家は、他にあまり思い浮かばない。今思いつくなかで比べうるのは、前回の新潮に載った吉田自身の作品くらいで、あの作品も秀作で、読みながら面白い以上に未だに読んだときの感触が記憶に残っている。最初に、期待通りと書いたのはそういうこと。
ところでこの人の文章は、川上弘美のような技巧的な上手さはほとんど感じさせない。きっと分かる人には分かる上手さがあるのだろうが一見平明な文章であり、このような文章で、吉田がこのような今を生きる人の荒み(すさみ)を作品で強烈に感じさせることができるのは、描かれるべきものをハッキリと彼が持っているという事が大きいのだろう。
話を急いでしまったが、前作、今作に共通する一番大きな特徴といえばこの荒みである。主人公が明らかに荒んでいて、それが非常によく伝わってくる。何かとイラだっているし、どこかしら暗い。普通に暮らしていて、決して部屋に一人閉じこもっているわけではないのに、閉塞を感じさせる。
これは今思いついたことなのだが、これらの苛立ちがなぜ荒みを感じさせるかというと、大文字の問題が失われた事が大きいのではないか。50年代60年代に若者を動かした社会問題が失われ、80年代に若者を動かした表層的な享楽も失われてしまったのが、今、なのだ。ここでは、全くどうでも良いことが主人公の頭の中を占め、その事に、読む我々は荒みを感じてしまうのではないか。
この作品でも、一方に主人公にとって大事なものとして写真作品を配置しておきながら、主人公は自分の生の証明としてむしろ、自分の尻を触った男性を力でねじ伏せようとする事のほうに力を注いでしまう。ベクトルがずれているのだ。
何か大切なものへの方向がすべて閉じていて、あさっての方向に行かざるを得ないというかのような。
結果主人公は、ねじ伏せるのは肩透かしをくらいつつも、痴漢に間違えられて鉄道警察にねじ伏せられることで充実感を得る。その皮肉さがまた面白い。
こういう目的で純文学を読むのは間違っているのかもしれないが、今を感じたいというのであれば、吉田修一、読むべき作家である。