『文体の「消滅」について』宇野常寛

なんか言ってることとやってることが違っちゃってるという感じがして、読んでいて痛々しかった。もう純文学なんて一顧だにするものでもないみたいな事をいっておきながら(たとえば文学は書いてみないと分からないと主張するのも、それに反論するのも無駄な所作らしい)、それを主張する文章はすごく生真面目で硬く、なんか文芸誌に書くという事を意識しすぎてカチコチになっている感じ。
普段威勢のいい自民党批判をしていながら、国会議員になって質問に立ったりするとしどろもどろだった某評論家を思い出した。
それは書かれている内容からも窺えることで宇野氏は純文学周辺の護送船団的体質を批判しているのだ。何を今さら、という感じである。柄谷が文学終わった書いてから、もうそれを忘れてしまうくらいの月日は経ってると思うのだけど。
結局、純文学のちからを信じていればこそ護送船団を批判するわけで、柄谷のように放っておくのが正しい態度だろう。死んだものにあれこれ言っても何も面白い事などない、と。
あるいは私がちょっと敬っている田中弥生のように、もはやきちんと"護送"したほうが良いんじゃないか、と主張するのならば分かるのだ。(たしか彼女はこの間の文學界の大座談会でそんなことを言ってたはず。彼女のほうが、現在の文学というものの置かれている状況を遥かに分かってる。)
純文学の中の人を宇野氏は批判するのだが、今のままで呑気に延命できると考えている人とか危機感を持ってあせってる人などむしろ少数派だろう。終わった感と諦観をもって、どの辺で縮小均衡するのかな、と思ってる人のほうが多いのではないか。そんな人は生半可な護送船団ではクソの役にも立たないだろうと感じているから、いちいち批判するような野暮な事はしないだろう。好きな人は好きにやらせておけばいいじゃないかの心境である。
ちょっとした悪口を言われてしまった高橋源一郎には、今回は同情せざるをえない。彼にとっては自分が、近代批判でもある現代純文学のスポークスマンみたいな立場になってしまってるのは仕方のないことで、別に近代と共に歩んできた純文学という制度など維持したいとは考えてないだろうから。