『「人間をおとしめる」とはどういうことか』大江健三郎

沖縄ノート』をめぐる裁判で、今まで書いていなかった舞台裏とかそういう話を期待したのだけど、どうも公式なステイトメントという感じの内容で、以前朝日新聞に書いた(らしい)事の繰り返しというか大差ない感じ。曽野綾子の誤読といえば確かに誤読としかいいようがないし、アイヒマンになぞらえた箇所の真意にしても大江氏が言うように読むほかはないのだけど、しかし、"しかし"と言いたくなるんだよなあ。
というのはこの反論じたいがまた大江ふうの語りになってしまってるから。大江氏の問題意識をフォローしてきた人間でないとやはり分かりづらい面があるのだ。その分かりづらさが隙となって、右の人たちに付け込まれてしまったという自覚が少し不足してはいないか、と。
自分は軍隊や軍人そのものではなく、沖縄をずっとネグってきた本土の人たちをこそ問題にしているのだ、ともっとそこを分かりやすい言葉で前面に出せば良いのに、と思う。あるいは、自分の著作の影響がどれほどのものか、と。曽野綾子の「読み」があって初めて自分の著作が非難の的となったのであって、著作直接でなくひとつの解釈を元にして名誉毀損とはこれいかに、とかどうせ書くならそこまで書いても良いんじゃないか。