『東京キノコ』早川阿栗

のっけからダブスタっぽい話になるのだが、昨日の川上未映子について書いたなかで「目新しさ」はもういいや、とか書いておきながら、この『東京キノコ』みたいな作品を前にすると、こういう何の新しさもない如何にも純文学な感じはもういいや、とか思ってしまうのであった。
なんなんだろう、このいい加減さ。いい加減であることを自覚しつつ、少し自己弁護するなら、いかにも新しい意匠を、工夫をしてみました、というあざとさが余り好きになれないわけで。だから、べつに既視感のある典型的な純文学みたいなのでもいいんだけど、それでやっていても枠からはみ出てしまうちょっとした過剰さ(あるいは不足さ)っていうのが出てくると思う。みんながAをやってるから自分はなんとしても非Aを、というよりもみんながAやってるからAやってみたけどA'がでてきた、みたいなのでいいと思う。
その型からはみ出る部分をあまり感じなかったのだ。どうしてもこれを書きたかったというパッションが不足しているのではないか。そういう意味でいうと、島田雅彦が奨励するのはいかにもそれらしい。
で具体的にいうと、とりあえず話の焦点はしっかりしているし、文章も読みやすい。松浦寿輝が言うような子殺しに対する想像力の面もそれほど問題とは感じない。
私が一番ひっかかりを覚えたのは、分からない分からないと言いすぎていやしないか、というところ。なぜだか分からないが怒りを覚えて、なぜだか分からないがキノコが生えてきて、なぜだか分からないが自慰的行為をしお菓子を食いつづけ、なぜだか分からないが弟と同じ名前の男性と付き合っても平気だった・・・。あまりにもこれらが漠然と放置されていて、受け入れるためには読者は少しでもこれらのひとつひとつに解釈を与えたくはなるのだけど、そんな事する気にもならない。
基本的に人間の気持ちが理不尽にこれといった理由もなく揺れ動くのは分かるのだが、もっと分からないの前で立ち止まるだろうと思う。これではせっかく生み出した小説内人物に対して不誠実といっても良い。なんか女性の気持ちと言うのは分からないものであって、しかも分からないまま放置するものなのだ、みたいな倫理性のなさすら感じるのだ。主人公の恋人男性もまたある種の屈託を抱えて生きていることが示唆されるのだが、これも示唆されるだけで放置。これだって一人称小説だからいいのだというのではなく、付き合ってる人のそういう面を感じたのならば男性だろうが女性だろうがもっと「立ち止まる」ものなのではないだろうか。