『冷たい十字路』津村記久子

前作ほど大絶賛ではないけど、やっぱ面白い。
津村作品では登場人物がなぜかカタカナで、でもそれが虚構性というか作られた物語という感じを与えるよりも、むしろより現実に迫ってるように感じられるのはなぜなんだろう。
この登場人物への微妙な距離感覚が、現実生活での他人への距離感覚をより映すものとなっているからだろうか。


十字路での自転車事故を、多人称というか、複数の人間の視点から描いた作品で、結局ものごとは何も解決せず、極めてドライな認識で物語は終わる。


一人の人間を小説のなかで掘り下げて多面的に描けば、どこにも悪い人などいない、という事になるのだが、同時に、人間の一面として、人はちょっとした悪意を抱くことから逃れられない。
そういう所を描くのは、津村はとてもうまくて、カタカナ名であることもうまく作用している。
どうして、その悪意を描くことから逃れるのがそう簡単ではないのか。理由も判然とせずそんな事言い切っていいのかという問題もあるが、その悪意はたんにストレスが原因という事でもないのではないか、とは思う。だが、常に存在する人間の本性かというとそれもまたしっくりこない。


この作品では、過去の事故への無意識の復讐、を示唆しつつ終わるわけだが、となるとこれはちょっとした悪意どころではない別の話といっても良いものなのだが、あくまで示唆程度に終わる。
それを傍観者として見ている主人公(のうちの一人)のドライさ加減には、とてもリアルな、身近なものを感じる。
どうしてこんなふうに上手く書くことができるのかいつも驚かされているが、今回は、会話の内容の意味など、少しつっかえてしまう所があり、もちろん私の読解力のせいなのだが、ひとつ評価は落とした。