『脱走』磯崎憲一郎

連作の四回目。三回目の作品にはここでは触れなかったが、相変わらず筆(とうかキーボード?)一本で、つまり想像力で現在をどこまで突き崩すことができるかというところは変わらないものの、やや読者として磯崎作品に慣れてしまった面もあるのか、正直書かなければということがなかったんである。この作品も魅力的なエピソード(氏独特の、不可解さをあえてそのままに解かずにおくようなエピソード)はあって、けっして嫌いになれないし、書いてあれば読んでしまう作家なのだが・・・・・・。と、こんなふうにもやもやとしたこと書いてるが、作家に次から次へと新らしさ、新次元、新境地を求めてしまう消費者としての読者のありかたこそ問われるべきなのかもしれず、なので、固有性一回性にこだわる反・一般性、もっといえば反社会学な作家として私にとっては磯崎氏は貴重な作家です、とフォローしておく。
と、ここでメモ的にここでこの小説とはまったく関係のない話を書く。磯崎氏の小説も先をあまり定めずに任せて書くというやり方をしているらしく私もそれにならってということではないが、そもそも習おうにも頭の程度の差がありすぎるのだが、近年”介護離職”というのが問題となっていて、介護のために長年働いた職場を離れ、つまり退職して限られた時間のなか新聞配達をしながら生活保護にも頼りつつ親の介護を続ける中年男性をテレビで見た。彼がその現在をどのように受け止めているのか。それは彼自身にとってもうまく語る事ができないらしく、「しかたがない」以外の言葉がないのだが、それは聞かれればそう答える以外にないからそう答えたようにも見え、聞かれない限りただ続けるというその受け止めの光景が頭から離れてくれない。磯崎作品の主な読者層はたぶん有閑な文芸趣味のひとたちで、むろんそういう人たちこそ虚無を抱えているのだろうが、あの彼の虚無すら感じないだろう介護の日々の空白にこそ、いま向けられるべきなにかがあるのではないか。
磯崎氏の作品によって、「いまここ」の奇妙さ、かけがえのなさに多くの人に触れてほしいと常々思っている私は、こんなことを今思い浮かべてしまったのだが、ただ、彼のような人には小説など読む暇も金も恐らくない。