『美味しいシャワーヘッド』舞城王太郎

こないだの芥川賞はけっこう可能性ありと踏んでいたのに、けっこう早々と脱落状態で、たぶん選考委員のみんな受け止め方が分からないんじゃないかと思ってるのだが、どうなんだろう。もしかしたら、書かれている出来事や思弁の意味内容にばかり比重がいっていやしないか、と。そうじゃなくて、むろん内容が意味ないとかそういうことじゃないんだけれど、この、舞城文体というかスタイルでそれが言われるというところに舞城王太郎の小説家としての存在意義があるんじゃないかな。複雑なレトリックとか、間接的な遠まわしな言い方でもって、実態のよー分からん深遠な何かをさもあるかのように感じさせる、そういうところから方法論的に対極をいく、みたいな。言葉の平明さに立ち返り、それを再度捉えなおして、より距離を縮める、みたいな。うまくいえないんだけど。
今回の作品は、いつもより少し内省的で、ひとりで田町からレインボーブリッジで風に吹かれにいったりするところもあるんだけど、基本は、突然のできごとに振り回されつつ、冗舌にあれこれ思弁を繰り広げる、ここのところの作風が踏襲されたもの。場面展開はこれまでよりどちらかといえば頻繁かもしれない。なかでも、真っ暗な多摩川べりの散歩とか、昔の女性との花嫁控え室でのやりとりとか魅力的なシーン。景色と対峙するところも多いかな?
女性二人と主人公との関係のこの感じは、他の作家には見られないもので、例えば、同じ新潮の前の号に載った「火山のふもとで」の古臭さと比べてみて欲しい。いま、どちらがより魅力的で、どちらを私たちが必要としているかを。