『日記と周辺』川崎徹

作者の母の最期の日々を描いたもの。ところどころの記述から現実にかなり近いところにあると思われる。
こういう内容で私が悪い評価をすることは先ず無いのだが、入院した母親の付き添いを妹と同時に入れ替わるように行っていて、より円滑にそれが行えるように気づいたことをノートに連絡帳のように記すことにしていて、そのノートをもとに当時のことを、暫く経過した後につづっている。
ただでさえ読ませる内容なのに、この工夫がまた読ませる。どういう事かというと、今の心境と、ノートをもとに思い出した当時の心境、そしてノートの言葉がところどころそのまま書かれる。大げさな言葉でいえば重層的なのだ。時制がひとつしかない闘病記みたいなものだって、それはそれでその分迫力は増すだろうからそれでいいのだろうが、こうすることでより人に近づいたというか、人は一歩引いたところから自分を見れるのが人なので、そんな気がする。あれほどあのときは重大なことのように感じたのに、ときが経ってみれば医者の職業的冷静さを悪く言えなくなったりする。
病にあるとき、あるいは身内が重大な病にあるときというのは言わば非常時であって、そういうときを人生から除く事はできないにしても、あくまで非常時で、そこでずっと生きていられる訳ではない。その、そこでずっと生きられないことを悔いるかのように、ひたすら作者は様々な死を思い、亡き者をとなりにまだいるかのように思おうとする。それがやや感傷的にすぎるかなというくらいのところで、しかし、そこでずっと生きられる訳ではないというところに向き合った、やや開放的な終わり方をする。
作者はこんなところまで小説にしてしまったとか、あるいはここまで書いたら他に書くことは・・・と小説のネタ切れを気にするふうなのだが、何の何の、なんか作品ごとに読ませる技術は上がってるし、この終わり方をみても良くなっているような気がするんだけど。