『出日本記』大澤信亮

タイトルから想像されるとおり、震災がきっかけとなって考えたことが綴られているもの。
全体としてみればいたって真剣で、というか真剣すぎて、そのせいかどうか、前半で平野啓一郎だとか東浩紀とか、あるいは西へと居を移した(「逃げた」と表現するひともいるが)ひとがDISられているのだが、冷静にみれば多少やつあたり気味にも思える。たしかに震災について殆ど冴えたことを言っていないように思える平野啓一郎(というか全く覚えていないのできっと冴えてなかったんだろうというだけなんだけど)にしたって、きっと作家の社会的責任みたいなものをマジメに感じているからこそああなんだろうし、東浩紀にしたって移動したのは確かたかだか伊豆のほうではなかったか。20年くらい前であれば若者たちの神々とか言われて筑紫哲也と対談しそうなくらいに絶頂に君臨している人にあれこれ文句をつけるのは勇気がいるだろうなと感心する部分はあるし、さいきんは文筆家どうしが名指しで批判しあうということも少なくなってきてはいる。なので外野としてはこういう所確かに面白くはある。でも、こんなところが実際この作品で、先ずは最も目を引くところとなってしまっているのは、いや、そんな野次馬的なのは私だけであればいいが、それは作者は望むところではないだろう。ここまで人目を引こうとしなくても、いやあくまで真剣であるがゆえにで、人目を引くつもりなんて毛頭ないかもしれない。が、そう取られかねないようにするに越したことはない。それが読むべき優れたものであれば、じわじわと読まれるはずなのだ。「群像」なんかでと冷ややかに見る向きもあるだろうが、いまや論壇誌が風前の灯火でもあるのだから。
ちなみに、西へ「逃げた」人へのDISに関してもここで書いておくと、おしなべて批判しているかのように受け取られかねない書き方をしているのがまずヒヤヒヤなのだが、たしかに常日頃から日本はどうあるべきかを説いたりしているような人や、あるいは世田谷区深沢に住む岩手県選出の某大物議員のように立場上そうあるべき人が、こっそり東京脱出なんていったら失望も無理ないことかもしれないけど、そんな人はそれほど憤るほど沢山いたのか。政界でこの岩手県選出の某議員がもうイラネー存在になっているがごとく、もうそんな人はいなくても結構というくらいの程度のものではなかったのか。そんな、無視してもいいくらいの事にわざわざ言及することで、知ってか知らずか共同体意識を強化しているような気もして私にはそちらのほうが気になるのだが。たぶん負い目の意識がそう感じさせている部分もあると思うけれど、東京から出る話をしたら裏切り者を見るような目で見られたという話があって、そういう目ってなんなんだろう、と。その人たちが出て行ってしまえば残った人間の生活も成り立ちにくくなるような田舎の話ならまだしも、首都圏からフリーの文筆家が西へ移動したところで、むしろその数は多いくらいのほうが風通しがよくなるくらいの程度でしかないのに。もっとも堂々と西へ居を移して、で東に残った人間のことを放射能を甘く見すぎだとか子供たちのことを考えてんのかと批判するような、フリーになれない人間のことを分かろうとしない恥さらしのクズは、裏切り者を見る目どころか、徹底してギャグみたいな存在として葬り去るべきではあるんだけど。しかし何度もいうがそんな人間は殆どいない筈だし、なかでも小説を書く人でそういうのは殆ど目にしない。まあ例えいたとしても、動けない人を批判するのでなければ、自由にしたらええ。我々が小説を読む、買う=小説家をフリーにするということは、小説家にたいして共同体のコードのもとでしか生きるようなそんな存在であって欲しくないという希望が含まれているんじゃないかと思うし。
ちょっと否定的な話から始めてしまったが、上記はこの作品の中心的な内容とはそれほど関係がない。というか、そもそも中心がどこにあるのか、というところがあって、話しがあっちへいたりこっちへ来たり、あることについて考察を始めても何も結論しないままいつのまにか別の話となっている、そんな具合ではあるのだ。題名が「〜論」ではなく「〜記」となっているのだから、それで決して悪くはないのだが、正直焦点がどこにあるのか分かりにくくはあった。そんなこんなで、じっくりと深く考えるべきヒントのようなものは数多くあったのだが、それらに逐一触れてああでもないこうでもないといったら、この感想そのものが終わらなくなってしまうので、とくに印象的な点にのみ触れるだけにさせてもらう。私の思考力や知識では限界がありすぎる。
まず印象的だった点のひとつ、それは中沢新一の「日本の大転換」とかいう私が前半の途中で読む気をなくしたものをきっちり批判しているところだ。大澤氏は書く。「そもそも人間は生態系からはみ出す過剰さを宿命的に強いられた存在ではないか」と。まったくその通りとしか思えない。「言語使用者として存在する人間はパターン反応で生きる動物ではありえない」しかり。ノーベル賞作家を中心にいまや反原発でなければ人にあらず的な雰囲気になってしまって、たとえ無茶なへ理屈でもかつての吉本隆明のように声を上げる人がいなくなってしまった大政翼賛会な言論界において、なんでもかんでも反原発なら受容されてしまいかねないところ、こういうのはたのもしい。(念のため言うと大澤氏は原発推進でもなんでもなく、もっとラジカルに原発をなくす道を考えようとしているのでそこは絶対に間違わないように。)
端的にいって、「自然」沿おうとするかぎりにおいて、そのことがすでに人が本来的に「自然」ではないことを示しているのだし、人がいかようにも行為できること(原発を作ること、生態系を保護しようとすること、などなど)を含めて「自然」としない限り、そこでどっかの誰かが考るような「自然」は人の行為への抑圧となるのだ。そうやって、人が子供を作らないことは不自然だとかいうようなのが出てくる。しかし、そんなのはまだマシで、人の本来的なあり方は農耕であって、自給自足であり、交換も必要ねーから貨幣もいらねー、それが「自然」だというような奴がでてくれば、誰がどうみたってこれはポルポトだ。何が正しい自然史的過程かなんてことがまかり間違って真剣に論じられたりして、そーゆー奴が出てきたらどうすんだろ。
ところでここで、大澤氏は資本制がやっかいなのはそれが人の本性に根ざしているからだ、などと言い切っていて、たしかに近代に入ってからの西欧型民主主義とパックになった世界的な圧倒的な広まりを考えれば、根ざしているかはともかくも、数ある制度の中で人の本性にもっとも適合した制度であるとはいえるかもしれない。しかしその後が分からない。「ならば必要なのは、言葉の交換それじたいのなかに、暴力を超える原理を見ることだ」うーむ。こうなると観念的過ぎて私の頭ではついていけない。資本制が人の本性であるならば、それを否定することなく改良的に漸進的にやればいいだけのはなしで(たとえば原発を廃棄するためにはよりコスパのいいシステムにすればいい)、なぜにそこにべつの原理のはなしが出てくるのか。原理は資本制ではなかったか。
もっとも、近代以降ひとは何かというと変革の時代だの転換期だの新時代だのと、つねに現在こそが新しい局面であるかのような言説に夢中になりあるいは自らそう叫び、そうやって「何かあたらしいもの」を必要として進展する資本主義の栄養となってきたともいえるわけで、ここで氏が「原理」などというのも、これはこれで、資本制は人の本性という自らの言葉を裏切ってないことにもなるわけだが。この箇所だけでなく、なんか乗り越えようとすることそのものが元のものを強化してしまうかのようなそんな身も蓋も無い感じを受けたことも記しておきたい。真剣でマジメで肩に力が入っていて、プロテスタンティズムの倫理云々じゃないけど、この作品にこそ資本主義的なものを感じてしまうのであった。
以下上記に関してこの作品と関係ない単なる思い付きでしかないが、「3.11」なんて別段そんな画期的な出来事でもないでしょという人がいたらそれはそれですごいとも思うし、これだけの事故がありながら、まだ原発に賛成する人が3割近くもいるということの方に私は希望を感じたりする。たぶん皆それどころではないのだ。2、30年先の放射能の影響なんてどうでもいいくらい今困っている。(でここでさらに余計なことをいってしまえば、今困っていない人がその生活を壊されたくないがために反原発に熱心なのではないか。)そして今困っている人は、それを解決する画期的な何かがひょっとしたら無いのではないかと考え始めている。このような終わりの準備にこそ乗り越えが潜んでいるのではないか。
たとえば今世紀にはいってのみるみるしぼんでいった音楽業界。いろいろ原因が言われているが、コンテンツが飽和限界に達したというのが究極の最も大きい原因だろう。分かりやすく言えば音階の組み合わせ、楽器、音色の組み合わせには限界があるのだ。何も新しいムーブメントがなくなり、そして「何か新しいもの」がなくなれば拡大再生産は終わる。いまそこにあるものを根こそぎしてしまうような暴力的な資本の運動は終わる。しかし音楽を聴く人はまだ相当残っているし必要とされてもいる。クラシック音楽がしぶとく残っているように、きっとどこかで縮小均衡するのではないか。その縮小均衡の退屈な運動ともいえない運動のなかでどれだけ人は生きていけるか・・・・・・。
話それたが、興味深かったところ二つ目。それは厳密には大澤氏ではなく杉田氏の言葉なのだが、食料品やガソリンを買いだめしてしまう心理にも「子供のため」「家族のため」が少なからずあると思う、というところ。分かるなあ。でもこれ、私に言わせれば、「少なからず」ではなく、まさにそのために買いだめしてしまうのだ。もっと広げていうなら、女性や子供がいるから戦争が起こり、原発が建つ。つまり暴力が生まれる。暴力というのは利他的であったり、私憤より公憤のときにより激しいということ。
ただ、そこから暴力を問題視しすぎるがために、新しい倫理云々といってしまうところにこれまたついていけない。ここでも原理的なのだ。いまあるものから少しづつ開いていくことができればと私は考えるばかりである。「子供たちのために」動くことが100%正しいと考えるようなところから、その正しさを選択せざるをえないとしてもその正しさが通じない場所が数パーセントは必ずあるのだと自覚するところへと。