『テレヴィジョン、国の麻薬 無知を育て、放射能食わせる』モブ・ノリオ

まあ実際は紙の無駄に分類すべきものだが、図書館で借りたもので関係者に失礼だし、こんなものでも載せてしまう「文學界」はなんて懐深いんだろうなあ、と感じさせたという意味で、それなりの意義はあったのかも。
この国のテレビがアイドルグループの総選挙だのに一所懸命ないっぽうで反原発デモを報じないのは、陰謀どころか誰の意図したことでもなく大衆が自ら望んだことであって、そこを見据えられないのは、原発がなぜこれほど沢山建てられたかを理解できていないのと完膚なきまで同根だ。テレビをバカにするのは、大衆を、共闘すべきあなたの隣人をバカにすることであって、どうしても望む方向に持っていくとしたら、どっかの国のそれのようにより統制されたマスメディアにするしかない。
という上記のようなのは恥ずかしいくらいベタなこのエッセイにたいする反論だが、それはそれとして、世論調査をすれば6、7割が脱原発とかいうなかで、一般市民の反原発デモにどれだけ報じる意義があるんだろうか。
という、そういう意義的なものをマスコミがまったく考慮していないわけでもなく、同じデモでも、福島の農家が東電前で抗議デモというような事態はちゃんと、参加した人数が一般市民のそれより少なかろうと報じているし、ついこの間も、東電にたいする株主代表訴訟なども報じられた。ぶっちゃけ、京大のカンニング事件だの、オウムが捕まっただの、AKBだのが、与野党協議原発論議なんかと同じ程度に扱われてしまうということこそが、マスコミの面白さであって存在意義なんだけれどなあ。でなければ、どっかの誰かが決めるなにが重要かによってテレビの内容が決まっちゃうんであれば、そりゃどんどんつまらなくなって存在意義がかえってなくなっちゃう。人民日報なんて殆ど読まれていないんじゃないか。
という上記のようなのはあまりに真面目すぎるが、というか皆このエッセイ、スルーしちゃってここで反応しているってだけで私もくそ真面目だなあと思うが、自殺した農家の人の死をもって「一人も死んでいない」といった小松左京に文句つけるのはあんまりだというのは最後にいっておきたい。小松左京は「一瞬にして奪われた29万人」と比較していってるのだから、そこでは科学的な放射能なり熱線なりの影響のみに限定していて、だから何も間違ったことは言ってないし別段なんの悪気もないだろう。そしてその状況は一年と三ヶ月たった今もじつは変わっていない。(ただし家畜で餓死したようなのは、一瞬に含めるべきなのかもしれない。畜舎に繋がれたまま骨と皮だけになったあの光景は忘れられない。)