『すみれ』青山七恵

愛称が「レミ」という女性がでてきて、題名が「すみれ」というわけで、最初から少しバレつつ話はすすむ。このレミという女性は世間から少しずれていて、小説とか書く方面に人一倍関心があって、当然そういうのを目指したりするんだけれども叶えられなくて、今となってはだいぶずれてる女性で、主人公の父母の学生時代の知り合いということでその厚意で主人公と同居している。今はプーだ。その女性と、思春期の主人公との間に起こったことを書いた小説なのだが、このレミという女性のように精神的にややおかしいところまで行かなくても、なりたいものになれなかった人はこの世にはとても大勢いるわけで、しかも小説なんか読んでいる人は更に該当したりするわけで、こちらに焦点を合わせて進むかなと思いつつも、作者はすこしばかり突き放す。寄り添いつつも距離がある。なんにせよ、レミは主人公ではないのだから、当然といえば当然なんだが。すみれという名前があるのに「レミ」と呼ばせ続けているのも、ただの愛称ということ以上に、いくばくかの甘え、自分と向き合えていない含みもあるかもしれない。
人に手を差し伸べること、困っている人を助けようとすること、人に関わることについて考えさせられる小説である。距離というものは結局はなくならないものだ。読者もそれを試される場面がある。鎌倉に主人公とレミが出かけて、レミがひとり浮かれてたいして主人公の欲しくもないものを買ってあげたりするところなどだ。読んでいるほうも思わずムっとしてしまう。このへん非常にうまくヒトの嫌な場面を描いてるなあと一方では感心するんだが、というのは、まったくもって身に覚えがあるからである。
精神が少し病んでいて癒えたとはいえないレミの行動には気をつけるように父母にいわれている主人公は、実年齢に反してなかば保護者的立場となってしまっているのだが、いちどそうやって上にたってしまうと、相手が期待通りに動かないことにたいしてより苛々する。対称性がくずれてしまっているからだ。しかし、助ける助けられるという関係性のなかにいる限り、この非対称は厳然としていて克服するのはそう簡単ではなく、簡単であればそこには不自然ともいえる宗教的な寛容さしかなく、それでは小説にはならない。われわれの物語にはならない。
かくして主人公はレミを突き放してしまうのだが、現実とはそんなふうにしていつかは突き放せばならなくなるのか。そこに救いはないのか。最後に主人公は長い時間をかけてある方法を試みるのだが、そこまではここで明かさないでおく。すごく出来すぎた話なのに、それが気にならないくらいの結末が描かれる。(さきほど、レミは主人公ではないから寄り添いつつもどこか突き放していると書いた。ヒントはここだ。主人公なら寄り添えるのだ。)
小説というものがこの世に存在してくれたということ。