『わたしがいなかった街で』柴崎友香

もう買わないかもとさいきん書いた新潮だが、こういう小説が掲載されたりするから油断ならない。
すごくおおざっぱにいえば、中年にさしかかった独身女性の日常を描いたものといえるのだが、それにしても、この作家の全作品をチェックしているわけではないので正確かはわからないが、これまでの作品と比べ、エラくシリアスで内省的な作品を書いてきたなあという印象で、読む前と読んだあとのこの作家に対する構えもまったく変わってしまったくらいだ。
むろん、これまでがべつに内省的ではなかったということではないだろうが、私のなかに残る印象としては、これまでは容易に主人公の居場所は「仲間」の間に確保されて、それに費やす時間も深さもそれほどではなかったように思う。しかし今作は違う。主人公はとにかく何度も何度も、自分が「いまここ」に居ることをどう捉えるべきか、何かあるたびに、問う。というか、何もなくても問う。みずからすすんで戦乱をうつしたドキュメンタリーをみたり、そういう歴史があるところを探索したりする。自分がいまここに居てよいのかどうか最後まで悩み続ける。自分はなぜあの戦火のなかにいないで済んでいるのか。しかもそんな大層な努力をしているわけでもないのに・・・・・・、という。
また今作が少しこれまでと違うのは、世間に対する違和をより前面に出しているように思えるところで、こちらには少し驚きも感じられたものだ。だって、柴崎友香の小説の主人公が世間に毒づくんだぜ!
覚えているだけでも、たしか、ショートボブの女性にたいして自分のことをかわいいと思っている女性がする髪型だ、と思ってみたり、東京の商店街を歩いては、こんな特殊な店がやっていけるのもどうせ東京だからだろうな、としたり、正社員を匂わせる奇麗事なんて言わなきゃいいのにと上司に落胆し、極めつけはJ−POPにたいする、「感謝」だの「奇跡」だの決まった言葉、通俗的でくだらない言葉の使いまわしで出来ているこんな音楽よく聞けるな、というもので、これにはよく書いてくれたものだという思いを禁じえない。こんなセリフを柴崎友香の小説で読むなんて!(わたしもここで幾度も書いてきたが、恋人へ感謝ならまだしも、親への感謝を歌にするような音楽には身の毛がよだつ。音楽というのは、「親へ感謝」なんていう道徳を小ばかにするためにあるんじゃなかったか。)
もちろんこちらにしたって、これまでの柴崎作品の主人公が世間に違和を感じていなかったということではない。これまでも世間とどこかずれた人物がおおくは主人公とされてきて、そういう意味で今回の作品から柴崎ファンが総入れ替えじゃということにも多分ならないのだが、繰り返しっぽっくなるが、これまではその違和を吸収できる場所が容易にそこにあったような気がして、だからこそ、ここまで毒づく必要もなかったのだ。
毒づくといえば、さいきん読んだ中では中村文則の小説みたいなのが思い浮かぶが、「自己」と「世界」が対峙する構図で世界を理解するというのは近代的な自我の本来的なありかたではあって、そのなかで、自分の境遇が悪いばあいなど世界の方に責を負わすというのはありがちではある。なので、(純粋なはずだった)自分をこんなふうにしてしまった(汚らわしい)世界に対するうらみつらみを述べるというのは、けっして特別なありかたではない。そもそも自分を問わずして世界のせいにしているほうが楽だしね。
で、そんな中村作品のような、というかあそこまで鈍感で幼いとまた極端に感じてもはや典型とはいえないのかもしれないけど、世界のがわを責めるようなもののバリエーションのひとつとして、この柴崎作品の主人公の毒づきがあるのかというと、これがけっこう違うのではないだろうか。それはたんに、この作品の主人公のその世間の様相にたいする違和の表明が、毒づいているとはいっけん思えないくらいソフトである、ということではない。毒づくのはときおりであって、その何倍も自分のあり方を疑っているのだ。
むしろ毒づかなかった頃の柴崎作品の主人公のほうが、近代的自我の構図のなかのバリエーションのひとつでしかないように思える。ようは居場所が見つけられるか見つけられないかだけしか違いがないのだ。居場所が見つけられなければ世界を呪い、見つけられれば世界から自分がかかわりたいものだけ選んでいればよくて毒づく必要もない。
しかしこの小説の主人公は、そんな「自己」と「世界」が対峙する構図での世界把握から、一歩踏み出しているように思える。ややおおげさに言い換えれば、柴崎は、これまでと少し違う新しい世界把握を主人公をつうじて試みようとしている。「自己」対「世界」で分けられる世界から、自己を世界のなかに含めて考えようと考えようとしている。考えているわけではなくて、まだ、考えようとしている段階ではあるけど。何しろ、この主人公だって、夫に浮気はされるは、もういい歳になって契約社員から昇格できないは、で、けっしてうだつがあがっているほうではないのに、そんな状況で、うだつががらないのはどうして?ではなくて、うだつがあがらないようにみえたりするけどそんなにひどくはないよね、というふうに考えるのだ。自己もまた世界内のものとして外側から見ようとしている。自分はたんなる観察者ではなく観察されるものにもなっている。戦乱ドキュメンタリーを見るのが好きだったりして、いっけん典型的な世界を外側からみるだけの観察者のようだが、その痛いところをついてくる人物をわざわざ登場させたりして、その場所をぐらつかせる。
ちょっと書いていても面白くない説明ばかり続いてしまったが、ではなぜこういう人物を主たる人物として作者は描いたのだろうか。
じつは、この作品には、内面が描かれる女性がもうひとりいて、その女性も、主人公以上にひどい男性経験があって、彼女もまたもしかしたら自分は二度と結婚することないんじゃないかと考えがちな人物である。そのことを考えるとこの小説は、昨今の経済社会情勢を反映した、男性が生きにくくなって結果として主婦という選択肢も消え女性も生きにくくなった世界で、子供を生むという重要な要素も捨て、どう世界に関わっていくか、生きていく意義をどこに見出すべきか、を書いた小説といってよいだろうとは思う。そういう側面をおもに受け取ってこの小説に希望のいったんを見出すそういう読みもありだ、と思う。というか、こちらのほうが受け取り方としては主流かな。
しかし、それだけでもいいが、それだけではないように私は思ってしまうのだ。ただ生きていくためだったら、もっと心地よい場所を探せるはずなのに、主人公はひょっとしたら仲良くなれるかもしれないむかしの男友達に会うことにそれほど執着しない。もっとすごいのは、熱中症で倒れて救急車を呼ぶ羽目になって、しかし、こんな暑い中深く考えずに歩いた自分が悪いのに救急車など使ってしまったせめて保険診療はしないでおこうとか考えるのだ。いくら自分はとくべつな自分ではなく世界を構成する世界内一部でしかないにしても、いくらなんでもそこまで、と思う。そこまで自分を責めるのは、自分は恵まれているほうだと考えるのは、いったいどうなんだろう、と。
結論をいってしまえば、ここに震災の影を感じざるを得ない。わざわざ震災前に小説世界を設定した作者にとってはこんなこと書くのは迷惑かもしれないのだが、そうしてわざわざ、震災が起こる前の出来事として日付を入れている作品だけになおさらそう感じるのだ。過去の戦死者のことを思ったりするのは、現在の欲望ばかりを考えていなかったことへのアンチテーゼとして受け取れるし、世界に関わっているくせに関わっていないかのように観察者でしかなかった悔いが感じられるし、呼べば来るものとして救急車を考えず、そこにかかる費用やさまざまなひとの関わりを思うところなど、いつもそこにあってスイッチひねれば点く電気をどう考えてきたかとの比較を思わざるをえない。女性が結婚もしないで子供も生まないでというのを、放射能の影響とかと関連付けるのはそれは違う行き過ぎた読みだと思うが、少なくとも事故後、低空飛行を強いられるであろうわれわれの生き方と、主人公の慎ましい生き方はどこかつながるものがあると思う。
いろいろ好き勝手書いたが、抜群に面白いとは言わないものの、リアリズム小説でありながら様々な要素があり、読むものが印象に残るところもそれぞれ違うかもしれない、単純なこれといった受け取り方ができない、あまり他にない快作と言えるだろう。それに、現代の若者群像を(もう若者といえないかもだが)、その生き生きとしたありさまをただ楽しむというこれまであったような柴崎作品の読み方も充分許容していて、私はこういう点については単純な好悪として今ひとつ好かない部分もあるのだが、ともあれ著者名だけで買う人の期待は外していない。「新潮」はバックナンバー販売に冷淡なので手に入りにくいかもしれないが、そのぶん単行本化率は高い。待つ価値は充分あると思うが、よくわからなくて楽しめないつまらないと感じる人がいても驚かない。