『やさしナリン』舞城王太郎

冒頭、唯名論を思わせる記述が出てきてついて行けるかとややあせらされるが、やがていつもの舞城的世界に突入してひとあんしん。
むかし私もふと思ったが、たとえば「ストレス」ということば、について。こんな言葉は近年になって一般化したものであって、それは便利だからこそ一般化した面も当然あるが、「ストレス」ということを気にするあまりなんでもかんでもがストレスを与えるものとなりかねないところがある、などなど。あるいは、たいしたことないプレッシャーがストレスという言葉があるおかげで避けるいい言い訳になったりとか。たとえば極端なはなし、帝国陸軍・海軍が何も食わずに何日もぶっとおしで歩かされたりした時代に、「ストレス」なんて言葉があったら、日本軍はあんな無茶はできなかったんじゃなかろうか、とか。
で、この作品は「やさしナリン」という「アドレナリン」をもじった言葉でもって、そういう分泌物があるとすると行動の説明がうまくつく、そういうやたらめったら人を助けたくなってしまう人をめぐるドタバタ。で、この「やさしナリン」も「ストレス」といっしょで、説明のための便利な道具から、やがて行動をしばるという側面が危惧されるようになって、結局根本的な解決にはなりそうにない。
で冒頭の唯名論めいた、個別性と概念(もしくは一般性)との乖離の話がここで生きてくるのだが、当然われわれは言葉を使う限りにおいて、言語は概念そのものであって一般論に依拠せざるをえないから、個別の実在とはつねに食い違うわけだけれども、その食い違いを引き受けないとどうしようもねーだろうってことになる。っていうか、そういう乖離を厳密に考えずに行わず一致しているものとして、意識に先行して行う活動が言語活動だったりするのかな、とも思ったりするけど、こういう話を続けていくと、ダメットだとかパトナムとかさっぱりわけの分からない話になりかねないし、そもそも小説の評価と関係ないのでこれ以上はやめる。
思うのは、こういう込み入った話でも、舞城が使うようなカジュアルな文体でもじゅうぶんあれこれ考えることができるということ。
あともう一つは、ドタバタ劇じたいは、まさしくドタバタしてはいるのだが、まったくマンガちっくということでもなくて、ここに新しいリアリズムの萌芽が見られるのではないかということ。たとえば、主人公は夫の両親ともフランクに接してしまうのだが、こういう接し方はあるていど現実にも見られる事態で、嫁姑がどうのといったこだわりなどは今は殆どなかったりする。で、こういう関係性の変化というのは、言語の変化と密接におそらく関係していて、まあ、言語変化が先か関係変化が先かというと卵とニワトリみたいなことにはなるのだが。
そんなわけで、旧態然とした文体ではいまひとつ掬い取れない現代のある相を、よりしっくりと表現できる稀有な作家と舞城のことを評価したくなったりするのだが、果たしてしすぎだろうか。



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とくに感想に記しませんでしたが、この号は「震災後に芸術を云々」以外のところはすべて読んでいます。