『残された者たち』小野正嗣

いままで掲載誌を変えつつも主に「すばる」において書かれてきた、この限界を超えた限界集落モノのなかでは、この作品が一番面白いものではないだろうか。これまでの作品のなかには、やや単調というか、まじめすぎて「アソビ」が足らないというか、読んでいて噛み砕くのに時間がかかる部分が続き、楽しみよりも疲れを感じたりする作品もあったように記憶しているが、今作は、単に読んで楽しめる記述も多く、また、読んでかみ締めるべき部分も、分量の配分が良いせいか、進んでそこをゆっくり味わいたいかのような具合になっていたりもする。とてもバランスが良いのだ、きっと。
具体的にいうなら校長先生があやつる怪しげな英語にちょっと愉快になりつつ読むいっぽうで、朽ち果てていく墓、倒れてしまった墓なんかを描写したところなんか、その詩情はうなる程、鳥肌がたつほどすごく、じっくりじっくり読んでしまったものである。この箇所には正直驚いたものである。
また、肝心の主人公の女性がやや物足りないキャラではあるものの、その分(ということでもないだろうが)、校長先生や、少女と、その新しい友達、主人公の恋人である男性、などなど、明るさと屈折を抱えた人物が複数いるということも、またこの作品が単調さから逃れている理由の一つでもあるだろう。
明るさということでいえば、校長先生が口癖のように使う「ファイブ、シックス、フォー」なんかは場面をかえて何度も繰り返されたりして、こういうところなんかはエンタメ的上手さすら感じさせる。いっぽう、こういう突き抜けた部分がある分、この小説が抱えた「裏」の部分の「暗さ」「得たいの知れなさ」はハンパでないものがあるのを予感させる。はっきりとそう示されたわけではないのに校長先生がその明るさに至るまでは単純ではなかったことがきちんと看取できる。もとより、こういう地域に進んで暮らすというだけで、もはや一筋縄ではないってことに予めなっちゃうわけなんだけれども。
「得たいの知れなさ」というのは、ちょっと分かりにくい書き方をしたが、となりの集落では外国人が実際にある程度住んでいるという設定なのだが、彼らがどういうことを行っているかをこの小説でははっきりとさせていない。ただこれも、いたずらな曖昧さという否定的なものよりも、対比的な要素として未知の不安みたいなものを小説内に漂わせるという意味で、肯定的な効果をもたらしていると思う。
ただどんな未知な要素があるにせよ、土地を死なせないためには、もはやそういうことを受け入れるしかないだろう、とはいえる。ここに出てくる残されたものたちのうち、少なからぬ人物はもはや新参者ではあるのだ。主人公の恋人は「日本人」ではない。
この小説が素晴らしいのは、そういうところまでをも描いたところではないだろうか。グローバリズム以降の「故郷」の変貌を扱ったものの多くが、ただその変わりようを嘆くだけのものであったのに比べ、その先を見ている。土地というものが、けっしてそこに生まれ育ったものだけが継がなくても、誰かが移り住んで「生活」がそこに生まれれば、そこには何かしらが生まれる筈ではないか、そう見ている。
そしてさらに素晴らしいのは、それを全面的に肯定的には見ず、とまどいと手探りと喪失感をも同時に描いているところだ。いっぽうへ結論を固めてしまえば、小説である必要などないのだから。
土地なんていうものはただ便宜的なものだ、問題は人と人との繋がりだとはいえ、それだけでは言い切れないものはたしかにあるのだ。私など高校生の頃まで暮らした土地よりも、それ以降に暮らした土地のほうが年月で言えばもはや同等か長いくらいになっているのに、未だに故郷に帰ると他の地では味わえないなにかを確かに感じるのだ。もしかしたらいつか自分はここへ再び帰るのかもしれないというような、妙な安心感というか心地よさというか・・・・・・。安売りスーパーの数も多く、新しいモノを扱う店もそこそこある今住んでいるところのほうが遥かに便利といえるのに。
ひとまずここで繰り返しになる部分も含めまとめておくと、明と暗、底抜けの明るさと過去の絶望による屈折、エンタメ的なドタバタしたところと詩情あふれる集落の描写、それらがバランスよく繰り出され、飽きることなくかつ読みどころの多い小説であり、またそのテーマの扱いにおいてもけっして、どちらかに偏るところのない優れた小説である、ということだ。
でまとめたところで、例によって小説とはやや関係のない妄想的なことも書いておくと、この小説は決してたんなる非リアリズムではない、ということをいっておきたい。たとえばここ数年この国ではフィリピンから看護士を受け入れる試みをしていて、で、けっきょくコミュニケーションの問題で殆どうまくいってはいない。そして、そのことにあまり危機感がもたれてはいないように見えるが、じつは我々はミノルさんであることを求められているのではないだろうか。いまの人口構成からいって。英語のひとつも話せないようではオムツのひとつもとりかえてもらえないような世の中が絶対にこないと言い切れるのかどうか。(まあ若い人なんかは自分は年取ってもユニチャームの世話にはならないよとおもってはいるんだろうけれども、年を取るというのは決してそういうことではないから。)
もしかしたらここに出てくる残された者たちは、先行者たちではないか。先行者であり勝利者ではないか、とも思ったりしたのである。
あとこれはかんぜんに蛇足だが、家がそのまま流されてとか、異臭が漂ったりとか、公園にあるモニュメントがなにかの象徴のようにあったりとか、この小説には原発・震災をうかがわせるような記述があったりもするが関連性は低いと思う。