『今宵ダンスとともに』墨谷渉

この号の群像でいちばんの読み応え。もっと注目されていいのになあ、この作家。
すばるでデビューしたときにはどちらかといえば肉体的にがっしりした女性がでてきたりして、フィジカルなマゾヒズムを追い求める感じだったし、一方の要素では、数値化という要素があったのだけれど、じょじょに、数値化の要素はいくぶん背景となって隠れて、精神的なマゾヒズムを求めるものにかわってきた。これがいい。今作では、男性の主人公が付き合ってる女性の浮気を疑い、あえて暴かなくてもそれなりにやっていけるところ、徐々に暴いていくのだが、それはべつに浮気をやめさせたいわけではない。浮気を止めさせるつもりもないから、女性を証拠をもって問い詰めることもない。その一方で、明らかに自分は知ってることを相手が気づくようなギリギリの地点に証拠を提示する。この「出し切らない」止め方は、まさしく快楽をしっているもののやり方だ。
そして、最後には付き合いを自ら解消しても良いくらい、というか付き合うか付き合わないかなんて問題じゃないくらいの地点へといく。女性はそこではもはやモノとなる。
この、みずから、自らをにっちもさっちもいかない状態に追い込んでいくという欲求は、私的にはすごく分かって、そういう自分ならではの読みで、この作家を非常に評価したいとまず感じる。これはただダメになりたいという破滅願望みたいなのとは違うんだよね。逃避願望でもない。それらはあくまで解放なのだ、たとえ死であっても。この小説にあるベクトルは逆で、というかベクトルそのものが無くて、閉じ込める行き場の無さであり、あくまで快楽方面なんだ。さげすまれたい、期待を裏切ってしまいたい、取り返しつかなくしてしまいたいというのは。
ただ世間的にこれが分かるひとが多いとは思えないし、私のこういう読みと、作者の欲望も、恐らくはいま少しずれがある。この主人公はあくまで、外形的な要素をくらべたい、そういう明確なもの、数値的なものへの欲望があるゆえに、結果として、付き合っている女性の浮気を暴きにかかる。そういうことになっている。
ただ、この浮気の暴き方の、ちょっとありえないやり方(浮気相手と同じ車種のクルマにのったり、同じ女性にまたがって感想を聞いたり)のスリリングさが、綱渡り的なところからどんどん転んでいく様子が、私のなかの何かの線に触れるのであります。実際には、こんなことはしないし、まず間違いなくできないんだけれど、たとえば、付き合ってる女性の視線がじょじょにじょじょに冷たくなっていって、それが恐ろしく美しい顔の輪郭の線となって結実するところなどの描写は、おおいに引かれるものがあるし、ラスト近くになって、何も知らないふりをしてこの女性と浮気相手の男性と数合わせ的な女性との4人で居酒屋に行き、テーブルを寒い空気のなか囲むところなど、この行き場のない場所で半分耐えつつ半分なぜか心地よさを感じるところなど、この空間はまさに緊縛の空間ではないか。団鬼六ではないか。(←この名前の検索で誰かきたらごめんなさい)
そして主人公のこのような外形的な明確さへのこだわりは、ラストの己への処遇と続く。それまでも、製品の発注数であるとか、歩留まり、出来高というような数字の世界に接していたのだが、正社員としての評価というのは、数字という明確なものだけでなされるものでは概してない。指導力だの創造力だの曖昧な、評価するものの主観によって左右されてしまうようなものが関わってくる。主人公はそれが不満である。男女の恋愛ごとにおいて、容姿とかナニの大きさなどの明確なものではなく、包容力だの優しさだのが言われたりするのと同じだ。
(この部分についても、私も覚えがあって、運動系のクラブ活動かなにかで、明らかに私には他のものに比べ技術がないのに、ただマジメに活動をしていたみたいな理由で、交流試合のベンチに入れてもらえることになったとき、私はそれがすごく気持ち悪く、ちょっとした侮辱された感じすら抱いてしまったことを覚えている。)
そこで主人公は、みずから、まったく機械の代わりでしかないような単純な作業を行う派遣社員となる道を選ぶ。その「非人間性」がしばしば問題となるような仕事をあえて選ぶ。これは、自ら派遣社員となって工場にはせ参じるのだから、いっけん資本制社会を肯定するような行動に見えるが、じつは抵抗なのである。「人間的である」とかいうよく分からない曖昧さによって、労働の本質が隠されてしまう。そこを突いているのだ。いかなる賃労働であろうと、その本質には、人間の非人間化が存在するということだ。
なんて書くとたいそうな内容の小説に思えてしまうが、じっさいは筋を追っていくだけであまり沈思することなく楽しめることは、ねんのため最後に書いておく。