『ダウンタウンへ繰り出そう』高橋源一郎

震災を期に、というか、原発事故を期に「新潮」に高橋が書いたもののなかでは一番何かを感じさせ、考えさせるものだった。
たとえば事故以前にだって「事故」はあったのに見ようとしてこなかったことについて。あるいは、いまの汚染をめぐる「分断」状況について。などなど。
放射能の影響を過大に見る人は安心させるデータにはそっぽを向きどこかに危険はないかと探し回り(首都圏からわざわざ福島行って駅伝危険ですとかいう人もいたなあそういえば。自分が走るわけでもないのに!)、いっぽう過小に見る人は危険な数字には目をつぶり何もなかったかのように暢気な日常を繰り返し節電も忘れ再び電力会社に原発運転の言質を与えようとする。
見たくないものを見ないというのは、死者を排除することなのだが、最初からいないのではなく、蘇ったかれらを再び排除するのはなんと悲しいことだろう。