『グンはバスでウプサラへ行く』小谷野敦

評価の難しい作品だが、面白いか面白くないかといえば間違いなく面白い。
なぜ難しいかというと、わたしたちは小説の場外での小谷野敦氏にあまりに親しんでいて、この作品も、読んでいてブログの雑文の延長線上にあるエピソード集的回顧録という感じがして、ついこれ小説なんだろうか、と思ってしまうからだ。小説らしい仕掛けといえば題名の謎が、なぜこの題名なのかが最後の最後になって明らかになることくらいだろうか。たとえば、一人称視点をあくまで語られている過去の時点の視点に固定するような書き方をしてくれれば多少違うと思うのだが、作者が現在そのことをどう感じているかが随所に顔を出す。加藤周一がどうのと書くところなんかは完全にいつもの小谷野氏だ。エピソードも何か中心的なエピソードに向かって流れを作り出すような集められ方はしておらず、この点でも小説らしさは無い。漠然とした時系列のもとにただあったことで思い出したことを、大学入学から普通の大学で言う教養課程にあたるくらいまでを綴っていくかのようで、そういう意味で中心人物である主人公が漠然と思いを寄せる「太宰さん」の人物像は女性というのもあるのかわりと迫ってくるものがあったのだが、「ジュンシュー」というもっと興味深そうな人物に関しては、集められたエピソード不足なのか、いまひとつ像を結んでいない気がする。
それでも、集められたエピソードには面白いものが多いし、思いを寄せている女性が自分が全く知らない関係を広く持っているかもしれないことに対して嫉妬を覚えるなどの記述を代表的に、なるほどと思えるところも多い。しかし、それらの面白さ、あるいはこれは真実を書いているなあという思いは、小説に入る以前に知識として、小谷野氏が無かったことを作り出すタイプの作家ではなく恐らくここに書かれたのとごく近い事実がきっとあったんだろうなあ、というのがあるからそう思わせている部分があるのではないか。このへんが判断がつかなく悩ましい。弱いところがそのまま良い点でもあるような。
ところで、たとえば、もしこの小説を、小谷野氏のエッセイや単行本を全く知らないひとが読んだらどう感ずるのだろう。小谷野氏があまり無かったことを作り出すタイプの作家ではないとしても、ここに集められたことが全くの創作ではないという保証は何一つ無いし、個人の記憶だって、いたるところで不確かなものでもある。だから、これを最初から「小説」として入れる人にとっては、もしかしたら、まったく無かったかもしれないようなことをあたかも回想録のように書く、メタフィクション的な傑作ということがありえるかもしれない。ないかな?