『生き延びるための思想』上野千鶴子

こんなの載せるのは果たして文學界のやることなんだろうか、と思ってしまうが、図書館で借りている身として文句は言えない。
前半部分いがいは流し読みなので評価は載せないでおくが、原発事故に対するダメな反応の代表と思えるようなところがあるので、記しておく。(敬称略にてあしからず)
上野は原発事故がおきたあとの対応について「やっぱり」派と「まさか」派に分けているがなんと単純なんだろうとしか思えない。たとえばその前のほうのページで池澤夏樹が「(事故の映像を)自分の生涯で見ようとは思わない」とか語っているが、では、池澤を「まさか」派として上野は攻撃するんだろうか。そんなことはないだろう。誰もが多かれ少なかれ「まさか」「やっぱり」、その両方を持っていたのが真実ではないか。もっといってしまえば、自分は完全に「やっぱり」だったとあくまでいうなら、「まさか」の人間より「動かなかった」罪は大きいと言わねばならないだろう。予知していて動かないのは予知できなくて動かないより罪が重いだろう。
その後上野は日本が起こした無謀な戦争(とその敗戦)への対応と原発事故への人々の対応を、また「やっぱり」と「まさか」に分け、両者を重ねてみせるのだが、なんのことはない。重ねるべきはおのれ自身である。上野は、私は薄々知っていた、なのに動かなかった、反省しなければ、と今更のようにいうが、読んでいて悲しくなる。戦後になって、もっと軍部に物申すべきだったなのに自分は黙ってしまった反省、といったような反応をした文学者・知識人の、これは、そのまんまの反復ではないか。
そして上野は反省するわりには、なぜ動かなかったのかの「なぜ」に関しては己自身を除外した形でしか言及しない。
なぜ動かなかったのかに対する答えは、明白すぎるほど明白である。東京より遠い場所、福島や新潟にそれらはあったから。答えは、それ以外にはない。そして、そのような地方から富と人間を吸い上げる中心にあって、政財界に、まさしく国を動かす人物を多数送り込んできた大学で教壇にあった上野のような人物が、いまさら「国」を批判するのはなんかの冗談だろうか。
もうひとつ。あたかも戦後、日本共産党が尊敬を集めたように、「原発をつくらせなかった土地と人々がおります」などと原発をつくらなかった地方を賞賛してみせたのも醜い。これはいっぽうで原発のある地域に対する、カネ目当てに原発を作ったという暗黙の批判である。なんたる上から目線な、これこそ、まさしく都市からの地方への差別であろう。これこそ、原発をもたらした構造だろう。彼らは需要があるから応じたにすぎないというのに。カネという契機を作ったのはまさしく我々で、反対派と賛成派のいさかいをもたらしてきたのは都市の側なのだ。私は、そういう事態にたいして、一方の側を賞賛して見せるなどという神経が理解できない。
と文句はこのへんにするが、ここで念押ししておきたいのは、上野が特別に、誰よりもとりたてて悪い、どうしようもないということは全くない、ということである。あくまで代表的なダメさ、なのだ。
としたところで、ずっと疑問に思ってきたこと。たとえば、上野は女川原発は無事だったことを例に挙げ東電を攻撃するが、このへんもよく分からないところである。おそらく何かを悪者にしたて上げないとやってられないのかもしれないが、では東北電力のような会社が原発を作るのならばいいのだろうか。抽象的な反原発論と、具体的な東電攻撃が混在しているが、東電や国にすべて責任があるならば、良い会社良い国のもとであれば原発OKとなりかねない。そもそも原発は人類が掌握できるような技術ではなかったんだといえば、東電をなかば免罪しかねない。けっこうこれは悩ましい問題だと思うんだがどうだろうか。