『新潮』 2011.12 読切作品ほか

先日賞味期限を二年くらい過ぎたシチューの素を使ったら、普通に食べれました。(といっても、主にパスタソースになるのですが。)


と書いてふと思ったのですが、野菜をスーパーなどで買うとき、賞味期限なんか表示されていませんね。野菜については、肉や魚と違ってみずからの責任においてこれは食えないな、と思ったものは捨てるなり、みじん切りにして色が変わるくらいまで炒めてカレーなどに入れてごまかすなりしているわけです。それで特に問題が生じているわけでもない。
だったら、缶詰とかマヨネーズ、ドレッシング、醤油、サラダ油、乾麺などなど諸々については、賞味期限なんてもっと参考程度ですよみたいにして、あるいていど消費者に任せればいいと思うんですが、今の制度もなんだかんだで色んな経緯があってこうなっているんでしょうね。
データだけはきちんと表示させて(製造年月日、産地など)あとは自分で決める。お上にすべてを任せきらない。せっかく放射能汚染問題で、選択というのがわれわれのもとに近づいたのだから、安易な食品廃棄につながる賞味期限も見直してもいいかもしれません。まだ食べれるものがこの国では相当捨てられているのではないか。


というわけで、またもや放射能のハナシになっちゃうんですが、先日あるスーパーの野菜コーナーに入ったら、「当店の野菜は全て西日本産です。安心してお買い求めください」みたいなポップが立てられていて、今後その店で買うことは一切しないと決めました
元はといえば東日本の野菜というだけで買わない人が一定程度いて、彼らを当て込んでの売り文句で、少しでも売りたいスーパー側には同情できる部分なきにしもあらずですが、風評を助長するようなものには、たとえいかに微力でも抵抗します。
私は住んでいる近くに農家の直売所みたいなのがあってそこで露地モノを買うからいいものの、車も運転できずそのスーパーでしか買えない人にとっては選択の余地もありません。しかもわざわざ西日本からもってきているせいかどれも割高で、つまりはマーケットがもう所得が一定水準以上にある人向けになっていて、貧乏人は野菜も食えない、と。
放射能を避けて西へ移動した人は全然自由でいいと思うし、彼らを非難する人の気持ちは全く理解しがたい。そんなふうにずっと私は思ってきましたが、それはあくまでそういう階層化が自分にたいした影響を与えない(=西に移動する人は少なかった)からだったんですね。甘かったです。きっと福島では状況はもっとシリアスなのでしょう。人口が少なくなれば商店なども少なくなりそれだけ生きづらくなるわけで、そんな状況で出て行った人に何も思わないでいられるかどうか・・・・・・。


そういえば、いぜんこのブログであまり良いことを書かなかった斉藤環氏が、さいきん毎日新聞に書いていたのがなかなか読ませるものがありました。たぶん、ネットでも見れると思うのですが、けっこう踏み込んだ内容で、これ以降ひょっとしたら一部の人間からは御用学者よばわりされるのかもしれません。
しごくまっとうな事かいてるなあと溜飲を下げるような気分になった一方で、やや反省させられる部分もありました。私なんか分断化反対といいつつ、べつの分断化に加担しているようなところがありますから。
むろん、自分はネット上の匿名言論では少数派だと思ってだからこそあれこれ書いている、という、抑圧する側ではなくされている側だ的な言い訳もあったりするんですが、たとえばどっかでガレキの処理に手を上げたりすると匿名の「人殺し」みたいな信じがたいメールが殺到する一方で、リアルな場では恐ろしく無関心な層もあったりするのを実感していたりもします。
そこで、たぶん、あの手のメールを送る人なんかはそういう無関心さに対してかなりの苛立ちがあるんだろうなあ、必死なんだろうなとは、ここまでは思うんですが、なかなかお互い様という気にはなれません。たぶん、私は「分断」のその上下に引っかかってるんです。だから、連帯への希望など語る気にもなれない。このへんが斉藤氏との大きな隔たりでしょうか。じっさいは、主観的には彼らのほうも上に政府なり科学者集団があって、自分たちは下というかんじなんでしょうが。


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