(←訂正)『恋する原発』高橋源一郎

昨日の朝日新聞を読んで、いろいろ思うところあり、高橋源一郎のこの小説の評価を変えることとする。
この記事なのだが、なんでも佐賀県のある市で被災地のガレキの処理を受け入れる決定をしたところ、放射能を懸念したのであろう「安全な九州を守って」とかそれに類する主張の抗議が殺到し、市長が撤回に追い込まれたらしい。でしかもその抗議のうち相当な割合のものが県外からだったらしい。
まず初めに言っておいたほうが話が早いと思うのでいっておくと、この「安全な九州を守って」とかいう主張には、私はまったく共感しない。というか共感どころか、はっきりいえば、この記事を読んで生じたのは嫌悪だ。
まず最初に感じられるのは、そのことばに漂うエゴイスティックな醜さだ。九州のどこが安全というのだ。九州にだって原発があるではないか。たまたま、今回は福島で漏れたが、福島の原発より九州の原発の性能が優秀だったり、東京電力より九州電力のほうがガバナンスがしっかりしていたりするのか。九州電力のやらせ問題への対応みるかぎりとてもそうは思えないけど。もし九州で何か起こって、九州のガレキは九州でよろしくね、と言われたらどうなのだ。
とついエキサイトしてしまったが、いいたいことの中心はこれではない。また、西日本にだって東日本の食品が流通するんだよ完全に安全なんてありえないんだよ、という以前述べたことを繰り返すこともしない。べつに九州人を責めるつもりもない。
ここにみられる反省のなさにあきれ果てたといいたいのだ。あれだけの事故を起こしておきながら、ここでまた「事故」が繰り返されているのだ。(その意味では、この佐賀県のある市になされた抗議の多くが県外からで、首都圏からのよびかけもあったというのは、以後の主張にとって重要なファクターでもある。)
「安全な九州を守れ」という主張の先には何があるか。「がれきをうごかすな」「汚れたところは汚れたまま」、そして、将来もし「最終処分地は福島に」という決定でもなされれば、仕方ないとか悲しいけどとかの身振りとともにそれは肯定されるのだろう。行き着く先はそこだ。福島を見捨てますよ、ということだ。
冗談じゃない。待ってくれ。われわれは、そもそも福島を、そして、日本の、原発立地に比較的適した(いや適しちゃいねえか。過疎地だから適したとみなされただけかも)あちこちの過疎地を見捨ててきたからこそ、原発は建設されてきたのではないか。危険を外へ外へと押しやることで、引き受けてもらうことで、都市圏は「安全な○○を守って」きたのだろう。安心して、原発を「忘れて」きたのだろう。そして皆が忘れてくれたおかげで東電も杜撰さに安住することができ、事故は起こった。それなのに、いま再び○○に九州の二文字が入った同じ主張が繰り返される。(ガレキを受け入れる地方への反対が出てくるのはきっと九州だけではないだろうから、そこに任意の日本各地が入る。)つまり、一度ならず、二度までも福島県を見捨てるのだ。
中間処理施設を作る話が半ば決定事項のように進んでいるが(距離や時間を考えれば確かにそれは仕方ない面はある)、それが出来、暫く何もなければ、きっとまた人々は福島を忘れる。そして忘れた頃に最終処理施設が建設される。多額の交付金なりなんなりを見返りにして。原発が建設されたのと同じことが繰り返される。で?もしも最終処理施設から何かが漏れ出したら?きっとそのときは、すべて東電と政府のせいにしたように、そのときの政府や最終処理施設を運営する団体に罪をかぶせるのだろう。もうひとついえば、放射能の危険を声高に言う人の一部が、多額の補償金をあげて福島の子供たちを避難させてあげてくださいなどと悲痛な声を上げてたりして、いかにも人道的に聞こえるし人道的なのかもしれないが、交付金をせっせと交付して原発を建てるのと、補償金を握らせて福島を諦めさせるのと、全く同じことである。
われわれはまず「分断」が、事故をおこしたことを深く認識すべきなのだ。中央と地方、都市と過疎地、キレイとキタナイ、と。そんな境界線はもう再び引くべきではない。ガレキは受け入れればいいのだ。象徴的に言えば、いま「フクシマ」にいるのだと思って日々暮らすべきなのだ、すべてこの国の人間は。まあ現実的には、何かが飛散する危険があろうと、どのみち福島に事故直後飛散した放射性物質よりそれらは遥かに圧倒的に少ないだろう。そもそも、汚いものは仕方ないから汚いままにという極めて合理的で科学的な考え方をするならば、ガレキの処理から飛散する量の影響は殆どないという科学的説明も信じたらいい。
ちなみにもっと言うなら、海の汚染も日本領海にとどまっていないし、これから太平洋上に広く漂流したガレキの処分も問題化してくるのだが、「安全な九州を守って」みたいな主張が、そのまま諸外国から日本に向けられる可能性もある。「もう日本は汚れたんだから日本で処理しちゃってよ」「キレイなグアムを、西海岸を守って」とかね。で、むこうの政治家なりなんなりが殆ど汚染はないみたいだから、適当な費用いただければこちらで処理しますよ、となって、ありがたやーと思ったら向こうでも反対運動が起こったりして・・・・・・。


小説の話をしよう。やっと。
さっき、『象徴的に言えば、いま「フクシマ」にいるのだと思って日々暮らすべきなのだ。』と書いたが、それがそのまま現実化されているのが、この小説である。人々は福島第一原子力発電所の前に集い、集団セックスを行う。
最初読んだときは、"その光景の受け入れがたさのその極限を描くことによって、原発の受け入れがたさを際立たせる"だとか、その種の異常さをもって異常さを、馬鹿馬鹿しさをもって馬鹿馬鹿しさをより示す、そういうことなのかなあ、と感じ、それにしては戯画的過ぎるし驚きもないしと否定的に思って、ここにもそう書いた。
しかし、作者の意図がどこにあるにせよ、あの「安全な九州を守って」という心無い言葉を目にして、暫くして、この小説の意義がより深く立ち上がってきたのである。福島の事故を起こした原発の前でセックスを行う。これはそのまま受け取ってしまおう。馬鹿馬鹿しくもなんともない。ここには、圧倒的な「フクシマ」の受け入れがある。あの忌々しい境界線はどこにもない。ただ、土地的に地域的に境界線がないだけでなく、ときに神聖にも思われ間違いなく人間にとって重要な営みであるセックスの「キレイ」と原発の「キタナイ」までもが境界線を失い、同居しているのだ。
かつては、家のなかに仏壇なりなんなりがあって死者はそこにいた。もちろん一方で「ケガレ」とかいう観念もあるんだが、話が面倒くさくなるのでやめる。いま、「女性」と「子供」がキレイなものとして、いっぽうで「中年オヤジ」「喫煙者」「ホームレス」などがキタナイものとして徐々に分かたれてきている。グローバリズムの進展による格差拡大と歩調を合わせるように。女性はむろんのこと、当然だが子供は倫理的に上位の存在ではない。カントが自己や他者を手段としてのみならずと書いたときの、自己と同程度の他者でしかない。たとえば、自己を毀損するような行為(自殺)が中高年の男性に多く見られる今、ひとこと「子供」を出せば通りがよくなってしまうような現状は何か違う気がする。倫理がどうにも傾いているのだ。
子供がより放射能の影響を受けやすい。然り。だからむしろある意味ピンチでもあるのかもしれない。上記のような流れが加速してしまうような意味で。
だから抵抗として、もし、全ての日本人の隣というような場所がもしあれば、と思う。放射性廃棄物の最終処分場をぜひそこに作りたい。かつて多くの家にあった仏壇のように。そのようにして、子供を特別扱いしなければならない世の中だからこそ、せめて大人たちは福島県人もどこの県の人も、金持ちも家なしも、公務員も東電社員も(役員はべつね)契約社員も、分け隔てなく尊重でき、あるいは時々ちょっと軽く扱うこともできて(ただし平等にね)、そのときはじめて「原発」(←あくまで「」)から脱却できるのではないか、と。原発から逃げ回っても、べつの「原発」が同時に出来てしまってはなんも意味ないのだ。