『Tシャツ』木下古栗

すげー、脱帽だー、なんだこりゃー、うわー、という作品。単行本も晴れて講談社から出たのに今回は巻頭掲載ではないし、直前作でほんの少しながら停滞感があったんで油断してた。やられた。見事に。
巻頭の高橋源一郎に目を引かれてこの号の群像を買って、この作品を読まねえ人がいるとするなら、大きな大きな間違いであると言ってしまう。それはたとえば、せっかく全部やらせてくれるところに大枚はたいて行ったのにあそこにチンポ突っ込んで終わって絶妙の口技を味わわずに済ませてしまうような、スーパーボウル見てワイルドカード争いを見ないような、甲子園を見て県大会の決勝を見ないような、日本人やノゲイラのカードを見てフランク・エドガーやジョン・ジョーンズの試合のときは食卓の後片付けをして洗い物に立ってしまうような、ポン・デ・リングを買ったのにオールドファッションもフレンチクルーラーも買わないような、そういうものである。
特筆すべきは冒頭から。これまでしばしば見られたような古井作品ばりの長冗舌でもったいぶった文体は姿を消し、とんでもないスピードで出来事を描写してみせる。なんだなんだとここで幻惑され、その後暫くして出来事の年月は落ち着くのだが、あとはジェットコースター。いやいやジェットコースターなんてあんな乗る前から軌道が分かっているようなものと比べるのは失礼極まりない。訳分からない、予想だにしないことが起こる起こる。脳があんぐり口をあける。
常に読むものの予想を裏切り続けるこの内容は、とにかく一度アタマ検査したほうがいいんじゃないかっていうくらいのものだが、言うまでも無くクレバーに、意識的に形成されていることは間違いないわけで、その力量はハンパないと言っていい。
面白かったところを上げれば、ほんとうにまさしくキリがないので、一箇所だけにしておくが、私のツボは何年も怒ったことのないご主人がスキー場で激昂するところだ。しかし、一箇所とか言ったが、「まち子が〜」のハイライト、この機関銃に無事でいる人は想像できない。(ラップがすげー。)
ところでこの作品、私にとっては震災後ならでは、というところがある。あくまで私にとって、でしかなく、それもやや強引だが。つまり、ここで起こる出来事の、ある意味デタラメさ、落ち着きのなさ、一貫性の無さ。これらは、震災直後から約一ヶ月にわたって繰り広げられた出来事の相似形ではないか。原発をめぐる官邸と東電と保安院の記者会見の右往左往は言うまでも無く、計画停電とかいいながら前の日の22時まで計画が分からねえとか、分かっても番地ひとつで地域が違ったり交差点にオマワリいるのに計画的に停電しなかったりとか、缶詰とか電池はともかく食パンを何斤もかごに積んでそんなに食えるのかよカビるぜっていう主婦が出るくらい買占めが起こって、たまたまティッシュがなくなっていた私はいつも買っている200枚×5箱=228円のノンブランドものが手に入らず、398円のクリネックスを悲しく思いながら買ったりとか、午前中に売り切れるガソリンの車の列にバイクで並んでアイドリングのガソリンがもったいないから押したりとか、そんなこんなだ。もっといえば、言論の場での混乱は、ツイッターとかあまり覗かないのだが、相当なものだっただろうし、今も続いている気もする。少なくとも私の混乱は収束していない。きれいに反原発の主張を掲げだすひとをみては、私は賢くないから反省なんてしねーし、そんな綺麗に変われねえよ、とか終戦後の小林秀雄のごとく思いつつ、東北や福島のガレキ処理をめぐっては都市の人間というのはなんでこうも反省しねーんだ地方にまず押し付けたのはテメーラだろうが、と全く反対のことを思ったり。首都圏から避難する人を非難する人をみては、その人が避難したいならそれは自由だろうよ、こういう時こそ自由をどう考えているかが試されるなとなんて思ったりする一方で、避難するのが親として当然だろうみたいな言い方をする人を見ては、どれだけ補償されるかまったく見当もつかないなかで自由に動ける恵まれた人がどれだけいるんじゃボケとい思ったり。(あれ、この両者は矛盾しないかな?)
もちろん、繰り返しになるが、あくまでたまたまそうやって震災後の私とシンクロした部分があっただけで、木下氏が、震災を意識してどうのこうのということは、まず無いだろう。それ以前から、予測不可能的な面白さを数多く排出してきたわけで、今更、震災の原発の影響などある筈もないのだ。やっと現実のいくらかが追いついてきたか程度のものだろう。
そのことを端的に示すのが、この小説のあるところでセシウムがネタに使われていることで、私はここでも外で読んでいたら大変だーというくらい笑ってしまったのだが、未だにテレビのバラエティなんかでは絶対に使えないセンシティブなネタ(もちろんそれは然りではあるが)、氏だからこそそれを軽々しく扱うことが出来るのだ。
なぜって、現実がどうなったところで、つねにそれに拮抗できるだけの世界を描いてきたのだから。(もちろん、なんてったってアタマのなかの事だから、全く今回の出来事に対して氏に驚きがなかったとか言わないけどね。)
それにしても風評被害を助長するからという理由で、いたずら放射性物質に言及するべきではないというのは、然りではあるけど、もはやとてもとてもそれらが近い存在であることも確かなのだ。不言及がやがてタブーとなり、見てみぬふり的に差別が隠蔽化するのはもっとタチが悪い。なんか子供がよく鼻血を出すようになって、気にしすぎとつまはじきにされるのが嫌で誰にも言い出せずノイローゼになっている首都圏の主婦とかいるらしいが、「なんかウチの子が鼻血だしてるんだけどセシウムのせいかしら」「成長期の子供で鼻血を年がら年中出してる奴なんていくらでもいるじゃん」「そうかーハハハ」、と笑い飛ばせればいいんだが。
「あ、あっちゃんは水道の水飲んじゃだめだよー、テーブルにボルヴィックあるからねー」「うん」「おじいちゃんのお茶はセシウム入りでいいよねーもう大して影響ないだろうし」「ウムそうだな」「あんたもお茶飲む?」「おれもセシウム入りでいいわ、どうせ微量だろ」「ローン払い終わるまでは生きてよね、それ以降はどうでもいいから」「コラコラ」「ははは」「ふふふ」水道からやかんにジャーっとね。