『恋する原発』高橋源一郎

題名はすごく良い気がしたんだけどなあ。さいきんはまともな評論とか新聞に書いていたりとその手の活動も目立つせいか、こういうスタイルにどうも無理を感じるんだよなあ。CFNMの、なんとなくこれは日本的発展型なのかなと思わせるセンズリ見せがネタとして出てきたりとか、最近のAVの動向に詳しいところは流石だとは思うけれども。(ちなみに恐らく高橋源一郎氏は、一昔まえで言えばあなたのオッパイ見せてくださいだとかその手の虚構と現実の境目が、いいかえればヤラセとガチンコの境目が、仕込みとマジ素人の境目が極めて曖昧なAVとか好きそうだな、小説の専門家として、と思ったりもするのだが、そんな事はどうでも良いか。)
だってなぜ無理を感じるかというと、小説内に唐突に挿入される原発事故をめぐる評論がマジで力入っていて、これだけで充分読ませるんだもん。高橋源一郎が今回書きたかったことの9割がたはここにあるんじゃないのか。ほかの部分のドタバタ劇がとってつけたようにしか感じられない。そのドタバタのなかで例えば最近知事から市長になった橋下に文句つけてたりする所もあったりするんだが、この辺なんかいかにも典型的で、とってつけたようなひねりのないストレートさ。言いたいことがテーゼとしてはっきりしているんだったら小説のカタチなんかとらなくったっていいじゃん、まどろっこしいじゃん、という。
で、もっといえば、かえって、小説のカタチをとってしまった分突っ込み不足も感じたり。前半部分では、この国の戦後の言説空間の一番ダメなところ、戦争責任をめぐる問題への曖昧な態度を主にあきらかに問題にしているのだが、もっともっとやってくれなきゃ、とこれまたもどかしさが残る。
題名が良いと冒頭でいったが、さいしょ原発に人格めいたものでも芽生えるのかと思ったが、この評論をはさんでそこで起こる出来事は、世界の著名人があれこれ登場するわりには、なぜか、なんか、スケールが小さく感じる。この小説で一番残念なのはここかもしれない。そこへ至る前のAV女優が教育するところの内容とか読ませるところも少しあるんだがなあ(男はほんとうは女がきらいなのよ、とかよく言われることではあるけど中々迫力がある)。読み終わってみれば、なんか予想を超えないところでごちゃごちゃと終わってしまったなあ、みたいな感じ。きっとこれが「今」書かれているから、そう思ってしまうという面もあるのだろう。高橋源一郎が、むろん氏だけの力とまでは言わないが、変えようとして苦闘してきて、そしてある程度変わってしまっているのかもしれない今の言説空間では、この、氏らしい内容がもはや保守的になってしまっているのではないか。逆に言えば、この小説のスケール感の小ささが、ポストモダンな言説がある程度浸透してしまっているのを証明している。
まったくもって全面的に保守的とまでは言わない。私は、この作家の原点には、言語によって引きずり回されてきた政治運動への反省がまずひとつあると思っていて、それは体質的に忘れられてはいない。言語にたいする距離感はきちんと保たれている。それは大事なことだ。しかしまた、その距離感をもった言語への接し方が「自然」化しつつある面がありはしないか、ということだ。
まあこんなふうに外野が文句を言うのも身勝手なのかもしれない。本人にどうにかできることでもないようにも思えるし。
ただここまで言ってしまったのだから、ついでに言わせてもらうと高橋源一郎にもっと突っ込んで決着をつけて欲しいことがある。それは、言語が引きずりまわした左翼運動という忌まわしい過去への反省と共に高橋源一郎が登場したのと、左翼的な運動の退潮とが、そして左翼的なものとリンクしがちであった反原発運動までもが退潮していったのとが、重なっているのではないか。ということをどう考えるか、だ。もちろんそれはただ重なっただけの話ではあろう。氏が左翼的なものを葬り去ったと共に反原発運動も葬り去ったのだ、とか、そこまではとてもとても言えない。どのみち、80年代に入って経済的な差は歴然としてきていて、ゴルビーの登場を待たずとも左翼運動の退潮は時間の問題だったのだし。
ただ世の中というのを主体において考えたとき、高橋源一郎の登場を歓迎した空気と、左翼的な運動を忌避する空気、原発をなし崩し的に容認していった空気とがまったく関係ないといえるかどうか。別に氏に何らかの「責任」を云々するわけではない。それに、もちろん、左翼的な運動の退潮は時間の問題だったのだから、反原発運動が左翼的な、たとえば原水禁原水協との対立に見られるような党派的でしょうもないものであるかぎり、なんの力にもなりはしなかったのかもしれない。しかし、だとして、どういう運動がじっさい可能だったのか、とか・・・・・・。この辺に高橋氏ならではの突っ込みを、見せて欲しいのだ。今回の事故がまったく不可避だったと思いたくない。というか事故が不可避だったとしても、いま少しマシな対応がありはしなかったか。
ところで、力入っているとさっき言った小説途中の評論部分にかんして少し思ったことを書いておく。実のところ私はあまり自分の考えを整理できていないのだが。(ちなみに小説全体を考えてつい[オモロない]評価にしてしまったが、この評論は読む価値は大いにある事だけは断っておく。)
とりあえずまずひとつ言えるのは、今回の原発事故をもって辿ってしまうサイアクの反動が二つあって、それは反科学と、もうひとつは反資本主義だということ。どうにもこうにもポルポトとか下野運動とかああいうのの大失敗を忘れちゃいませんか、と言いたくなるんだよね。資本主義にたいするアンチを考えるのはいいにしても、それが「自然」というイデオロギーと結びついたとき、ときにとんでもなく醜悪な事態を招くということ。戦前の2・26だって、中央官僚+財閥に対する下からの農村主体のイデオロギーだし。エコロジー・健康・食の安全ファシズムのなかで欲望を圧死させられ、腑抜けた顔してただ息をするだけのように生きるくらいなら放射能で死んだほうがマシっていったら言いすぎか。(でも嘘や保身の自白で近所の人とか同僚を刑場に送ったりしてしまうくらいなら、死んだほうがいいとは言えるね。)
原発問題を、この世には原発問題しかないわけじゃないから途上国のエネルギー問題とか温暖化問題とか食料問題とか全てひっくるめて、しかも生活水準を劇的に落とさずに乗り越えるには、いままで以上に科学的に進化して、なおかつ大規模な資本の投入が必要なのは明白なわけで。地熱にしろ風力にしろ拡大しようと思ったら、列島改造に近い事態になる。郷愁をさそう田園の光景は一変しかねない。
もちろん高橋源一郎にとってそんなことは全て昨日かおとといの議論でしかなく、単純な「反科学」をここで書いている訳ではないのだろう、きっと。
有名な99匹と1匹のたとえでいうなら、上記のようなエネルギー云々の99匹の議論からは置いていかれてしまう1匹についての議論がここでなされているのではないか。引用されるのがミヤザキハヤオだけだったら私はミヤザキハヤオというひとを「ジブリの森」だとか命名したりするような単なるエコロジーおじさんだと思っていたのでふうんで終わってたかもしれないが、石牟礼道子とか読まされ、いま一度ミヤザキ部分を読み返すとなるほどと思えなくも無い部分がある。
多分科学的に、効率的に考えれば、福島県の一部は半永久的に立ち入り禁止にし、中間処理施設どころか最終処理もそこへということになってしまうのだろう。そしてガレキも一片たりとも受け入れないような「キレイ」な所との壁は高くなり、「キレイ」な方では、表面上きれいな分却って覚悟も付かず日々汚染への恐怖とストレスの日々。科学にはきっとここへの最終的な答えはない。宗教ほど明確にかつ強力にではないけど、文学の居場所は少しはあるだろうか。
多分いま我々は「死ととなり合わせ」に、つまり「キレイ」と「オセン」がはっきり分けられたなかで「キレイ」のなかに生きているのではなく、つねに「死と共に」生きるようになったのだ。まだらに、多い被爆量の人と少ない被爆量の人と、放射線の影響を受けやすい人とそうでない人とがいる。そういう状況で、分け隔てなく付き合い、混ざり合って生きていくということは、どういうことか。(もちろん西日本だって一緒だよ。自分が口にするモノの流通経路を完璧に把握できてますか?)
どうせ生きていればいつかは死ぬのだろうし、また、死ぬまで生きていることだけは確実なのだ。確実に、死ぬまでは生きている。放射能を受け入れて生きるということは、ニヒリズムではなく、かえって生の意味と選択の意味をそれまでより幾分かは近づけるもとのなるのではないか。多くの人にとっては、とくに福島の東部の人にとっては選択の機会などなかったわけだが、いま例えばどういう食品を手にするかなんかには選択がある。そのなかで茨城産や宮城産、あるいは栃木、埼玉産だって、低レベル被爆の危険という意味では大差ないのに「福島」とあるだけで買わないでいるのもひとつの選択だ。そうしたい人はすればいい。そうやっている一方で「フクシマを忘れない」とか言っていればいい。しかし、フクシマは外部に、忘れたり思ったりするような対象としてあるのではない、と思う。
今回のことが起きるまで、グローバリズムの圧倒的な進展のなかで、職を失い風景を失い、いやおう無く、といった局面ばかりが前面にたってきたのだが、もしかしたら、それでも生と選択は確かにあって、今少しづつそれを取り戻しつつあるのかもしれない。ほんの少しづつ、だが。(いろいろ書いたが、あまり整理できてないので突っ込みはなるべくご勘弁ください。)