『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子

この前の「群像」は間宮緑作品のおかげで読了する時間がややかかったが、9月号も時間がかかった。この作品のせいである。ただしその意味合いは全くの正反対だ。
この作品のインパクトが強かったせいか、読んだあとの余韻がぜんぜん消えようとせず、次の作品に移る気持ちになかなかなれなかったのである。さて、と「群像」を手に取り、この作品の次に掲載されたモノを数行眺めては、乗る気になれず、前のページをめくりだし、この作品の任意に開いた箇所をかみ締めるようにゆっくり読んでみたり、好きな箇所を何度も読んでみたりしていた。暫くはそんなふうに、まるで気に入った音楽を幾度もかけるような、そんな事をしていた。
とくに、ラスト近くで主人公が思いを寄せる男性と、普段行くことのないようなレストランに誕生日を祝いに行くシーンなどは、5、6回以上は読んでいるかもしれない。そして、それを遥かに上回る回数、頭の中に再現している・・・・・・。
こういう作品に出会えて嬉しいのか困惑なのか、嬉しいに決まっているのだが、それにしても仕事や家事の合間に、私の頭の中にこの小説の場面がやってきては、体が熱くなるような、頭がぼーっとするような感じがすることが暫く続いたのだ。それで、ときには危うくミスというか、体が慣れていた確認事項さえもすっ飛ばしてあわててしまうことがあったりしたのだから、困ったりしたのも事実なのである。
で、今いくらか冷静になった身で改めて思えば、その状態に一番近いのは"恋"に他ならず、ようするにあの子のことが頭に浮かんで勉強が手に付かない中高生みたいな、そんな状態とも遠からず。初めて面と向かって話をしたときの事を幾度も幾度も思い出したりしているときのような、電話がいつかかってくるのかと携帯電話を見えるように置いては円を描くように意識して部屋にいたりするときのような、高揚感というのとは少し違う、奪われて、うなされたような感覚。そして、何週間も会えなかった後に会うことになって待ち合わせした改札の雑踏のなかでその人の顔を遠くから発見したときのような、お互い話すことが尽きなくて川崎駅から武蔵小杉駅まで多摩川ぞいにいつの間にか歩いてしまったような(これは私だけか)、そんな今まで経験したあれやこれや、感覚を、それらをまとめてこの小説で追体験させられていたかのような気もする。
そして更に思うのは、この追体験のほうがむしろ強烈ではないかということで、ただしこれは、私がうなされるような想いを人に感じたのは遥か昔のことだからというのもあるのかもしれないのだけど。
つまり同じ号で、たまたま石原吉郎をめぐる鼎談のなかで主に奥泉光が、「体験」の「経験」化という事をいっているのだけど、この小説の言語化された「恋」が、読む私自身の過去の体験までも経験化して体験の強度が増しているような事も生じている。それを思うと、あらためて小説とはすごい、素晴らしいなどと凡庸なことを言わざるをえなくなる。
なので、少しもう一段冷静にならなければならないが、考えてみると、この小説内の出来事でもって己の(経験化された)体験を体験させられてボーっとなっている部分もあれば、というか、それ以上に、メタにたってボーっとなっている部分が大きいようにも思える。主人公と半ば一体化している部分もあれば、その状況を上から眺めている部分もある。今でもときおりだが、私は、この小説そのものに恋しているというか、こういう小説があることそのものに、ジワリと来たりすることがある。どうやら、「恋に恋する」というのは、男を知らぬ乙女だけのものではないようで、これだけ自分の全てを賭けて誰か特定の人のことを思い、自分を受け入れて欲しいと強烈に願う、ということが、間違いなくひとを生に向かわせる核のようなものであると同時に、核がそのようなものとしてあること、そして何より自分もかつてそのようなことを経験し、今もその気持ちを思い出したりできるそのこと自体に、心を奪われるのだ。
単純に言い換えれば、自分がいまさら人間であることに感動している、みたいな話にもなるのだが、それは当たっていないともいえないし、他にどう表現すればよいやら、今は分からぬ。
まあ、前置きはこれくらいにして、・・・・・・って前置きかよ、ってハナシだが、実際にまだ内容そのものに詳しくは触れていない。しかしこの前置きだけでもいいんじゃないかという気持ちも半分あって、というのは、この作品を読み終わったときなど、ほんとうに何も書く気が起こらなかったくらいなのだ。で、じゃあ、素晴らしかったあの『ヘヴン』のときは一体何を書いたんだっけ、とこのブログを検索してみたら、『へヴン』のときも作品の素晴らしさに見合う言葉がない、書けない、みたいな今回と殆ど同じ事を思ったらしく、もうどうしようもないのだ。
とりあえず、作品全体を相手にしようとせず、書けるところだけ書く。まず、主人公の大人しい女性(若くもなく中年でもないといったあたり)は状況をただ受け入れるだけの余り主体性のない人物として描かれ、その対に、何もかも自分で選び主体的に行動する女性を友人として対置したところで、この両者の中間にあるかのような他の登場人物も含め、生のあり方の議論で考えさせられるようなところが多数ある。こういうところは川上という作家は前作でもそうだが、わりと人物の性格・役割をはっきりとかたち作る。リアリズムよりまず先に人物を作るかのようなところがある。そうすると不自然さが出てしまわないかと心配にもなるのだが、会話のちょっとした端々や行動の詳細さには徹底的に考え抜かれたようなリアリズムを駆使することで、不自然さとかまずそういう感じは読んでいてしない。ただし普通のリアリズムだけの純文学が人間を感じさせるだけだとすれば、川上作品は、人物を明確に造形することで同時にさまざまに考えさせる。はっきりとした言葉で考えよと読者のあなたも巻き込んでいく。ここが素晴らしい。ちなみに、この二人が最後にどういう関係と変わっていくかに関しては、先日言及した岡田利規の考えとも通じる部分がなしともいえない。持つ者と持たざる者はどのように関係していくのか、それは決して、それぞれが等しく素晴らしいんだよ、といったような「テーゼ」ではあるまい、と思う。例えば、主人公は、書店に行き、様々な生き方を提示した様々な本の前に立つが、何一つ選択できない。それはあなたにはあなたの素晴らしさがどこかにあるはずという偽りの世界だからだ。
またこの人が人と関係する、受け入れる、拒絶する、というコミュニケーションに関しても様々なことを感じさせられた。主人公はたびたび人の反応に「驚き」、また主人公の友人の女性も主人公に「驚く」。この「驚き」の記述が多いのも注目される。これもまた私は、人を生へと向かわせるひとつではないか、とも思ったりしたのである。主人公のような大人しい人にとってはそれは時にとまどいでしかないのだが、私が好きなシーンでは、主人公は思いを寄せる男性が「驚いて」目を丸くしたことに「こんなに丸くなってましたよ」と「驚く」のだ。
そう。シーンということでは、目を丸くしたシーンも含まれる、主人公と思いを寄せるの男性との喫茶店での会話の様子、会話の内容がどれをとっても良い。それらは前半から中盤でしかないのだが、もうすでにその時点で私は読みながらノックアウト状態であったことを告白しておく。私はここまで筋めいたものをぜんぜん書いていないのだが、大人しい状況をただ受け入れてきた主人公の女性を中心に、彼女の「生」全般を描いていて、仕事を含めたいわゆる自分探し、といっても主人公が自分探しをするわけでなく、自分探し自体がどういうことかについてあれこれ感じたり考えていくのだが、そこで上で述べたような生き方の対比でも大いに、とても大いに考えさせられる面はあるものの、やはり一番こころ惹かれてしまったのは、この男性と主人公の有り様だ。
またこの二人をつなぐもの、話題の中心がが「光」をめぐってであったことも、とんでもなく絶妙としかいいようがない。この二人が通して光について語ったそのせいで、この二人が会うのがたとえ晴れた日でなく雨の日だったとしても、喫茶店の光がそこはかとなく読みながら意識されたりして、すべてが何倍も美しく彩られる。冒頭で述べたレストランでのロウソクのシーンには息がつまるし、その後の夜道でのシーンでは、小説に書いていなくても、街灯の白さやそれにうっすら照らされる垣や街路樹、とおくのビルの明かりまでが想像されたりもするのだ。また主人公が、思いを寄せる男性はわりといい年したオヤジとして描かれるのだが、格好もオヤジらしく着古したポロシャツだったりして、しかし、その彼に主人公がまばゆい光を感じてしまったところがあるのも特筆しておきたい。これは、実際にそういうことがあるのだ。だって、あったんだもの、私にも大昔に。いやそのとき相手の女性が真っ白いシャツを着ていたというのも確かなんだけど。それと、主人公と友人が小さなクリスマスツリーを囲むシーンも忘れがたい。
と書いたところで、この主人公の女性と、友人の女性のこの二人のことを思い出したら、また少しジワリと、ボーっとしてきた。まだ何か書いていないことが沢山あるかもしれないが、もうだめだ。これ以上もうあまり書けない。主人公と男性が心惹かれるとかさっき書いていながら、この二人の女性のことを思うとまだ冷静になれない。
とりあえずまとめとして言う。ひとを人として生かす核のようなもの、もっとも大切な何ものか、をふたたび思い出し出会うことができる、そういう小説。私にとっていえば、もはや出来事。