『新潮』 2011.9 読切作品

コーヒーメーカーにコーヒー豆を入れずにスイッチを入れ白湯を作ったという話はよく聞くのですが、私はインスタントコーヒーの粉を入れたことがあります。


原発事故の後だしジャンケン的なものはたいていのものは慣れた気がしますが、実は原発がなくても電力は足りていた、というような趣旨のことをテレビでやっていたのには、少しあきれましたね。
みんなで節電して、火力発電所をガンガン運転させたから余裕が出来ただけなのに。
東京電力がいくら節電の呼びかけをしても事故が起こるまでは殆ど協力せず、あげく2007年の夏には原発停止と猛暑が重なって一時深刻な事態になったことは皆知っていると思っていたのですが。


ところで文学界隈で、原発廃止なんて無理でしょ続けるべき、って人はいるのでしょうか?
たぶん、いないんでしょうね。反対する声ばかりで言いにくいという可能性はゼロではないですが。
私は文学界隈の者でもなんでもないのですが、じつは賛成でもいいと思っているんです。だって例えばこれを機会に科学信仰を見直そうなんて、最悪の反動ではないですか?
それにこれだけの事故がありながら、アメリカやフランス、中国などが推進の姿勢を変えていないのも気がかりです。日本というこの国は一度とんでもない独善となったことがありますからね。
ただしこの賛成には条件があります。核燃料や廃棄物の奪取を企てるような集団がこの世から消え、結果全ての情報が誰に対してもオープンになり、北朝鮮やイランやイスラエルのような国際機関の査察を受け入れようとしない国がすべて無くなるか体制を変え、国際機関の権限を強めて定期的かつ抜き打ち的な検査をすべての国に対して出来るようになり、もちろん停止命令も出せて、事故時の共通のマニュアルや事故対応主体や被爆許容限度が定められ、廃棄物の一定程度の合理的な処理方法が定められれば、の話なんですけどね。
私が生きている間には無理そうです。