『わたしの中の原発』堀川惠子

真摯さが伝わってくるエッセイで、主旨そのものに文句をいうつもりはさらさらないのだが、2点。
被災地支援のレタス100円に人がいないのは、地域にもよるとは思うが、あくまで関東の人間から言わせてもらえば少しばかり高いからである。足しげくスーパーの安売りをチェックすれば分かることだが、100円のレタスなんて福島産で無くとも手に入る日があったりするし、レタスはああみえて意外と長持ちなのだ。私のところでは、レタス50円という支援セールをやっていたが、そこそこ買う人は居た。
また、(政府の)事態を過小評価する姿勢ばかりが目に付く、というのもどうか。原発に関することは、他の事に関して以上に慎重な物言いが必要とされるので私の見方もたんなるひとつの見方であって、間違っていたら指摘してくれると本当にありがたいのだが、政府はたんに混乱し、知りえなかったことが多かった結果なんじゃないか、と私は思う。半径何キロの避難指示だって、ほんとうに政府への非難を最小にして混乱を避けたかったら、あれほど矢継ぎ早に、ろくに準備もできてない地域まで拡大するようなこともなかったのではないか。
また戦時中の日本は現実を直視しなかったとあるが、というより現実が見えていながら精神論で乗り切れると思ったり、あるいは戦意高揚に燃える国内世論という現実ばかりを重んじたともいえる。
かたや原発の怖いところはテレビの解説者でも言っていることが違ったりというような、現実を正確に直視できないところにあるのではないか。(誰かが隠しているから、ではなく技術的な意味で。)
もちろん原発が作り出す電気に安住していた国民だって悪いのだという一番の総無責任さは避けなければならないけれど、戦時中の日本と重ねるような極端な敵・味方の設定もどうなんだろうと思う。あの頃に比べればはるかにメディアは開かれているはずで、なにか極端な陰謀主体を設定しだすと場合によってはそれすらも信じられなくなってしまって、状況は一段と分断させられてしまう。実際にテレビでの原発報道はみんな操られているという人すらいたりする。それでは原発どころかこの市民社会ではなにも共有できなくなり、攻撃を恐れる余りかえって隠蔽されてしまうように思うのだ。
もちろん無責任さということでいえば、これから例えば被害の算定に関してなど、さまざまな無責任さが出てきたりするだろうが、それはきっちりチェックしなければならないし、震災以前の運営に関して批判されるべき点があったことは確かではある。だからこそ、敵ならば何もかも悪い奴ら、政府だろうと東電だろうと黒一色、にしてはいけないと思うのだ。そこには濃淡がある。
(貴重な昔の体験談を書いていただいた堀川さんのエッセイをだしにして私見を長々と書いてしまってすみません。)