『アメリカスケッチ2.0 ウェブと文化の未来を考える 第十三回 911から311へ』池田純一

この連載、わりと興味深く読ませてもらってきたが、震災直後の回であるということを差し引いても、「この出来事を311と呼びたい」という一文でこれまでが全て吹き飛んでしまいそうになるくらいに、残念に思った。
いや言ってることが逆だ。震災直後であるからこそ、そんな言い方をすることが信じられない。まだどういう事が起こっているのか、部分的には進行中かもかもしれないのに。恐らく心理としては、それらの出来事に多くあれこれと語りたいがために「311」というキャッチーな単語が便利ということなのだろう。911は人災、東日本大震災は天災だ。これこそ天と地ほどの違いという奴なのに。
たんなる直感だが、私はこの単語を多用する人間はあまり信用しない。おそらく被災地の人々とか、同じ物書きでも文学方面の人はあまり多用していないのではないか。おそらくそこで感じていることは一緒なんだと思う。簡単にキャッチーにコンパクトにまとめられたくないのだ。
一生の経験と同じくらいの重みが降り注いできたのだ。あなたの一生を一言で言い表せといったら、誰もが口を噤むだろう。
あとこれはどうでもいいことかもしれないが、個人的な出来事の重みとしては、3月11日よりもそれ以降の日々の印象の方がよほど強く、忘れられない。店頭からモノが消え、スタンドにクルマが並ぶ光景。流通というものの脆さと大切さを思い知らされた日々。