『美しい私の顔』中納直子

そこそこ長く文芸誌を買ってそれについてのブログとかやっていると、つい技術論的な見方が前面にでてしまうがちになるが、こういう作品に最上の評価を惜しまず与えるためにも、そういうのはときに反省したいところ。「アマチュアの読み」をどこかで維持したい。
という前置きをしたのはなぜかというと、こういう小説に対しては、なんだ普通のありふれた純文学じゃねとかときに言われたりしがちだからだ。選考委員のなかにもそんな感じでこの作品をみる人がいたようだ。何かしら技術的な冴えとかこれまでにないような驚かせるような仕掛けがないせいで、それがないことが先にたって読みを塞いでしまうとするなら、小説を読むというのはときになんともつまらないものになるだろう。
といっても、ただ単に生活を丁寧に描けば作品として読めるかというとそんな事にもならないわけで、この小説も入り口というか仕掛けというか、小説の推進力になっているのは、主人公が患った難病だ。それがどういう結果に転んでいくか、で読者はページを繰ることとなる。私もそうだ。で、もしかしたらそれをもって「闘病小説」だなんてくくりでこれを見る人がいるのかもしれないが、いったいどこを見ているのだと私はいいたくなる。(多くの)優れた小説が結局行き着くところは読んでいる「私」なのだ。私に届くか届かないか。あなたも今病気なのでしょうか、違うでしょうと。でもこの作品届いたでしょうと。
こう言ってしまうと逆差別ぽくなってしまうが、言うが、届かない人がいるとするならそれは組織のなかで働くということをした事がない人間がまず思い浮かぶ。もともと文学なんてものに中心として関わって来たのは遊び人放蕩者だというハナシもあるのだから別にいいんだけれども。なかには働く経験がなくても分かる人もいるかもしれないし、なくても良いと思える部分もこの小説は持っているだろうし。
でもこの小説の一番の深さ、痛みのその深さは働くということに関連しているし、そういう意味ではこの小説を正しく括るとするならそれは「会社員小説」ではないか。(もしかしたら最近伊井直行さんの影響受けてるか?私。)
そうだ。もし文学が古くは遊び人のものだったとするなら、「会社員小説」であるこの小説、なんだ新しいじゃん、てことになる。しかも主人公は佐々木という会社の実務の中心にある人の、その右腕として商品の仕入れや店舗のレイアウトなんかにも積極的に関わっている、そういう立場である。たんに会社や工場の一個のちっぽけな歯車になってしまったその悲哀を描くものとまた少し違うのだ。そういう歯車的小説はたしかに連綿とある。がしかしその連綿しか思い浮かばないと、またさっきとは別の選考委員みたいに「この主人公に必要なものこそ文学なのに」と思ってしまうことだろう。感想としては正しいかもしれないが、それではまるで意味がない。この小説の貴重さがまるで失われるからだ。文学が届くのが可能やようなそんな状況だったり、あるていど主人公が文学を持っていたら、まったく違う小説になって、それこそただの闘病小説となっていたかもしれない。。そもそもの最初から、仕事から「自己」を峻別できる人は、たとえ一個の歯車だろうと、場合によっては自足の気配すら漂ってしまうが、ここにはそんな余裕はない。「自分自身をいきたい」などという貧しい言い方でしか、生きていく意味を見出せないようなひとにとって何がいったい世にあるというのだ、分からない。が、仕事いうものにそれを見出しかかっていた、少なくとも自分は頼りにされる状況があった、そういう生を書いたことにこそ意義がある。
ところで大胆に言ってしまえば実際に働くというのは、想像の範囲にはないものだ。「自己」を峻別できると思っている人に対してでさえ、ときに仕事というのは、その人を思わぬ方向へグイっと動かし、予想もしないものへと変えてしまうものがある。頭で考えシミュレートしたものがことごとく裏切られるのが、人と実際に関わるということであって、仕事というのはそういうのが間違いなく一番如実に出てくるところなのだ。
「自己」を仕事と切り離せる人でさえそうなのだから、文学が届かない人がどうなるのか。その答えはこの小説にある。
顔を失うのはそれは確かに辛いだろう。しかも女性にとってはとくに。だからこの主人公が病院を転々したりネットであれこれ四苦八苦するところに痛みを感じ共感する人もいるだろう。これだけでもこの小説は丁寧に書いて真に迫り間違いなく読む人を引き込んでいる。しかしさらに素晴らしく、私を最高評価させるのが、この主人公がそれでも会社に顔を出そうとし、仮病っぽい言い訳をしたことに罪の意識を感じたり、そんな状態になっても会議資料を用意しようと目覚まし時計を早めにセットしたりするところが描かれていることだ。この、ここに描かれた痛々しさ!
まさしくここに「われわれ」がいるではないか。先ほどの文學界新人賞の受賞作で芥川賞の候補になった作品の「家族」がわれわれの家族であるように、この小説はとんでもない広がりを持つのはここだ。この主人公のように病を患うところまで行かなくてもその手前の人がどれほどいるものなのか。
・・・・・・少しハナシが大げさになりかかっているが、まとめればそういう事である。どういうことかというとただ若い女性が顔を失うだけだったらただの優秀な小説だがそれだけでなく、彼女が会社員であり半分管理職的立場にあることが、この小説の貴重さなのである。
単純にこういう作品がだから賞をとって、巻頭で掲載されたことが私は嬉しくてしかたがない。働いたことがないような小説家からは出てこないような「分かる」があちこちにあるからであり、誰一人として悪者として損なうことはしていないからだ。きちんと倫理が立っている感じがする。よくもこういうものを書いて下さった。
主人公がわりと軽蔑しがちにかたる主人公の姉も、また仕事へと自己をさらけ出している人たちだから、言っていることがよく分かる、のだ。もちろん言うまでもなく主人公の自分が会社にいなければという痛さも分かる。だから読んでいて単純にどちらに立てない緊張感のなかで、彼女らの会話のひとつひとつがより吟味される。上司の佐々木さんもそうだ。この佐々木さんが自分の思いをうまく部下に伝えられず空回りする痛さは、主人公が会社に遅刻してしまって目の前が暗くなる痛さと同じであって、顔を失うこととは別のあるいはそれ以上の痛さとしてこの小説の中心にあるものだ。この姉と佐々木さんは記憶に残る。
さきほど誰一人として悪者にしていないとは言ったが、ちょっとした勢いであって、じつは微妙な人たちもいて、主人公の部下で「いっけん」主人公の肩をもつ同年代の女性とか、いちどドロップアウトしてしまった経営者の男、抽象的な言辞に逃げ込む主人公の彼氏などはまだ自己が毀損されるまで仕事にやられてはいない。こういう人たちも悪者ではないが彼らを主人公にしたならば「会社員小説」とは呼べないものになっていただろう。
主人公は最後には会社を辞めることとなり、佐々木さんも会社からいなくなる。今後この二人が会うことはないだろうし、暫くすればお互いを忘れてしまうかもしれない。結局何もなかったのだ。彼女らは失敗し、会社という組織は何ももたらさなかったように見える。自分自身を生きなかったことになる。しかしほんとうにここには何もなかったのか。私はそれでもこの二人の間にこそ、会社という組織が作用させた、自由な個対個が趣味を通してとかあるいは恋愛関係であったりとかというのとはべつの、ギリギリのところに対峙した読まれるべき「繋がり」があったような気がする。そしてその繋がりは読者にも広がるものだろう。純文学界隈のなかではしかしそれは一部の読者になってしまうかもしれない。だから、もっと多くの人にこの小説読まれて欲しい。