『群衆のナンバー』穂田川洋山

谷崎瀬戸作品に触れておいて、これに触れないということはありえないわけで。
しかし正直言おう。寝た。途中で寝た。しかも二度寝た。つまり一度寝てしまって起きて、一服してまた読み始めてそして寝た。
これまでの作品から凡そ作風が固まっているのかという思いが油断だったのかもしれないが、南米か中南米っぽい小国での出来事を書いたこれは、寝不足頭にこれはやや退屈の度が過ぎたようだ。というわけでこれまでの作品とやや趣向がことなる部分はある。がしかし、むしろ穂田川洋山らしさのひとつがこの作品にはよく出ているといえなくもない。
デビュー作でもどこかで全く関心のないことばかりが書かれていて読むのが辛かったという評をどこかで目にして、そのときは全くそれが理解できなかったが、私にも少し分かったような。今作は、もう少しここで「話」を膨らませれば、というところで描写はどんどん移り変わっていってしまう。もしかしたら、興味がないことばかりを書いてという評にあえて挑戦してそれを徹底してませんか?といいたくなってしまうくらい。
食に例えていうなら、これまでの穂田川作品は、寿司なら寿司の、イタリアンならイタリアンの、食材がどこからきて、とか誰がどんなタイミングで切って混ぜてというところまで書く部分が作品のどこかに含まれていたように思うのだが、今回は、さして珍しくもない、エスニックなのかよく分からない料理がテーブルに並んでいるのを、少しづつつまみ食いしている感じ。カヤックの話がそのなかではわりと詳しいほうなのだが、これが興味を引くか引かないかはギリギリな感じだ。
でひとつ考えたのは、この作品の退屈さにそれが日本から遠い地の出来事であることはどの程度作用しているのかな、ということだ。つまり当たり前のことなのだが、我々が作品を読むときは、登場人物や他の事象に関して、書かれていない背景に想像が及ばせながら読んでいる。で、その想像というのは、自分が知っている、あるいは体得している風土や文化への理解というものがベースになっている。それが遠いものであればやはり難儀してしまうということになるのだろう。
それでもあえて[オモロない]にしなかったのは、中盤あたりからやや話らしい展開が見え始め、その文章力を味わえる部分が出てきたのと、固有名詞への徹底した拘りがこの人ならではの何かを感じさせたから。
これは登場人物の話というだけでなく、あなたの私の物語なのですよといいたい近代小説は、ときに登場人物に名前を与えなかったりAと表記したりしてきた。つまりここにはそれに対する明らかな逆行があるのだ(たとえばたいてい名もなき人の話である古井作品などと比較してみること)。この作品では登場人物は、実際に登場する人のみならず、登場人物の話にあがる人物に至るまでしっかりとした名前がフルネームで与えられ、つねにフルネームで言及されるという特徴を持つ。日本が舞台の小説でこれをやれば、その不自然さばかりが際立ってしまうことだろう。どこかでフルネームが明らかにされたとしても、途中で言及されるときは名前のみ「五郎が〜」とか苗字のみ「野口は〜」という小説ばかりで、我々はそれに慣らされているからだ。
同時に「少年たち」「公園にたむろする人々」「コートの男」が出てくるこの小説で、そういう名もなき人物と、しっかり名づけられた人物とでどういう差異が生じるか。あるいは、名づけるということがどれだけ人物の造形に関与し、文章でそれを個体として構築し、ひいては世界を構築できるものなのか。しかもそれを、日本人にはより馴染みのない南米地方のカタカナ名でおこなってどれだけ人を引き込めるか。成功するしないではなく貴重な試みであると思う。少なくともこの作品によって私は自分が小説を読むということの推進力が、小説以外の多くのことによって支えられていることに気づかされた。(小説を書く人にとっては自明のことなのかもしれなくて今更こんなこと書くのも恥ずかしいが、しかし恥ずかしさを気にしないということはないものの、そればかりを気にしてたら私レベルでは何も書けなくなるのでお許しを。)