『年の舞い』古井由吉

死ぬ直前、といっても時間単位でなく日にち単位のことなのだが、それまでになかったような様子、行動を見せる老人たちのエピソード中心のはなし。あれ、こんなことを言う(やる)ひとだったっけか・・・とかすかに違和感を感じていると、それがサインであったかのようにあっけなく召されていく。
私は、超常現象的なことに興味はないし、こういうのはいわゆる「ニセ記憶」に近いものがあると思う。この言葉を知ったのは、競馬の格言を検証したサイトがきっかけなのだが、《最終レースは○○が強い》とか《同じ厩舎の2頭だしは人気薄》とかいう格言は、それが実現したときばかり意外性とともに強烈な印象を残すから格言として残るが、実現しないときは意外性もないため、格言が外れた事実は記憶されない。ようはわれわれの記憶の問題でしかなく、確率的に検証すると成り立たない格言もけっこうあるのだ。
つまり何が言いたいかというと、サイン的なモノなくして逝ってしまう人も、サインがあっても逝かない人も、それぞれ結構いるはずなのだが、ただそれらは記憶されないだけではないか、ということ。そこには物語りがない。
いやその、「ニセ記憶」だからといってこの小説を貶めたい訳ではないです。むしろ感情としては逆。
たしかに一種の物語化でもあるから、正しいことかどうかというとは話は別だ。しかしニセ記憶だろうと何だろうと、誰かの生をそのように自らの記憶に刻もうとすることは、自らの死への不完全ではあるがひとつの準備足りえるのではないか。虚無に耐えるための。
もちろん誰かを記憶するからといって、それがそのまま自分が記憶されることにつながるわけではない。しかしそのサイクルに参加することによって、たとえ記憶されなくても・・・・・・、というところに気持ちが向かうのではないか。