『群像』 2011.3 読切作品

とにかく帰ってきたらテレビをつけてニュースを見る、という生活も過去になりつつあるのがなんか不思議な気もするここ数日ですが、相変わらずセブンスターは手に入りにくいです。


先日書いた地震当日の話の続きです。
路上で大きな揺れに遭遇しながら呑気に農家の庭先の直売所でホウレンソウを買って帰ってきたのですが、本棚が一部倒れ録画DVDがバラバラに落ちたり、高いところに固定せずに置いていた今は無き「ダイヤトーン」ブランドのスピーカーが落ちて床に穴に近い傷をつけた他は、思ったよりも被害がなかったのでした。もちろんこのくらいのことでスピーカーは鳴らなくなったりしません。
よく作り置きのスープなどをキッチンテーブルの端においたまま出かけたりするのですが、落ちれば床がスープ浸しになってしまうところ、その日に限ってそういう事もなく偶々ボウル一杯を冷蔵庫に移して片付けられていて、食器棚のなかの食器もキチキチにつめて収納していたせいか全く被害なし。
すぐテレビをつけて、テレビで農地らしき所を上がっていく津波をNHKで見ながら大変なことが起きているなとは恐らく思ったものの、気持ちはそれほど動揺も高揚もしていなかったはずです。というのは、花粉症の症状がテレビ見ながらもとにかく酷かった事からそうではなかったかと推測しているのですが。花粉症の症状って私の場合だけなのかもしれませんが、風邪引いたり極度の緊張状態になったり、特殊な状況に陥ると、症状が忘れ去られたように軽くなるときがあるのです。若い頃から長いこと花粉症だったのに、ノイローゼ一歩手前でハルシオンを処方されていた頃は嘘みたいに症状がなかったりもしました。で、その考えでいくと、震災直後の私はまったく平常時の私であった、と。


その後原発の状況なども知る事になるのですが、今から振り返るに、今回の一連の出来事のなかで何が一番インパクトを与えたかというと、スーパーやコンビニからモノが消えたこともそうですが、ガソリンを買うために長々と車が列を作っている光景ですかね、私の場合。もっともらしく言うなら、店に行けばものがあるのが当たり前の光景として染み付いていたということの裏返しなのですが、そういう理屈いぜんに、ガソリンスタンドに車が列をなし道路もスカスカという状況は「景色」「風景」を変えてしまっていて、なんか終末感一歩手前でした。これが瓦礫の山となると完全に突き抜けた感じになるのでしょうが、隣り合わせ的に光景が変わった気がして、これが高橋源一郎氏が言った「何かがずれた」という感覚を(あ、それ分かるなあ)としたところでしょうか。