『対談・アンネ・フランクと私たち』小川洋子×赤染晶子

何だコリャ、赤染晶子はもちっと若いと思っていたが、小林よしのり世代だったのか。アウシュビッツに、そこの所長だった人物が戦後、公開処刑されたことを、同じ残酷さを感じるとかなんとか、すっとぼけた事を言ってる。そしたら、ヨーロッパなんかいいからアジア近現代やれば? きっと東京裁判は暗黒裁判だとか言い出すだろうね赤染は。東條だって、市井の右翼狂信者に比べればクソ真面目な官僚に過ぎなかった点では、ヘスと似てるといえなくもないんだからさ。
そりゃ、一部の人間に罪をなすりつけるという面があったかもしれない。日本でもドイツでも。それぞれナチス帝国陸軍のせいにして。でも、どちらかといえば避けざるをえない副作用みたいなものだろう、それは。国民全体、すべての人々を同時に裁くわけにはいかないのだから。
裁けるところから裁いていく。それを積み上げていくことしかないだろう。それすらしなかったら大変な事になる。何の抑止も効かなくなる。裁けるところからといったって、無論法の下の平等という大原則があるから、同じ高級官僚の地位にある者の片方だけを罰するというのはおかしいけれども。
皆が悪かったんだといえば、じゃあ皆が悪くなかったという事になってしまう。その証拠が、たとえば「一億総懺悔」という言葉。赤染は、一部の人に罪をなすりつける事を難じるが、少なくとも日本では、じっさいには、東京裁判で一部の人に押し付けて終わったわけじゃない。一応、日本人は戦後皆悪かったということにしたんだ。ゴメンナサイ、と。しかし何のことはない、「一億総懺悔」といった途端、誰も悪くないことになってしまう。
ところで、どうしてこう「同じ」とか言いたくなるんだろうな、と、ときどき思う。一かゼロかの単純さ。戦争責任にしても、たいていある・ないの議論になる。罪にだって責任だって軽重あるだろう。
例えば、群集同士でもめて最後は殴り合いかなんかになったとして、その結果には、全ての人に責任があるともいえる。しかし、一方では、最初に手を出した人というのが必ずいるわけで、そこを確定していくことが何より重要だと思うけどね。
複数人物のからむレイプ事件なんかでは主犯格というのがいたりして、必ず罪に軽重がつく。そりゃ周りではやし立てた奴だって悪い。でもチンポ入れた奴がやっぱ一番悪いわけだし、本人だってその事は分かるだろう。で、そいつが周りではやしたてる人がいなかったらチンポ入れなかったとか言ったら、その情状を汲むべきなの?(いっさい汲むなとは言わないけど)
ヘスだって東條だって、命令を忠実に実行しただけという面もあるけど、倫理あるいは国際的な決まりごとに反する事をやっていたのは充分知っていた筈。日本の軍部も書類をけっこう焼いたという話だし、ヘスも身分隠して逃亡してるし。
こういうある行為を理由に当該人物を処刑する事と、ある民族に生まれただけでその人物を処刑することが、しかし「同じ」とはね。むかし黒人差別をきっかけに生じたロス暴動で、大勢の黒人が白人女性を滅多打ちにしている映像があって、正直見るに耐えなくて、その場合は確かに白人だからという理由だけでリンチされてるんだから、官憲によるひとりの黒人青年への暴行と「同じ」残酷さといえなくもない。でも、それすらも、暫くしてやはり「違う」と思ったものだけど。ある種の構造を背景にされた暴行と、いっときの熱狂で生じたものを「同じ」にしてしまうことはセンチメンタルに過ぎるんじゃないかと。
文学はマイナーなもののためのものでもある。これも重要なことだ。禁じ手をやたら設けるべきでもないし、それからいえば、ヘスみたいな人物を救うものがあっても良い。しかし、あっても良い、というだけだ。一人に罪を押し付けるなという言説が、罪に軽重をつける現実的な方策までが無化されるような力を持つに至ろうとするなら、たとえ反文学といわれてもそれには抗する。