『あぶらびれ』穂田川洋山

第一作(厳密には一作目ではないかもしれないけど)への自分の評価が間違っていなかったと思うばかりの素晴らしい出来。
文句のつけようがないのだが、ちょっと思うところを書くと、今回は俗っぽいというか、ちょっと芝居めいた人物も出てきたりする。というのは、人の話を立ち聞きしてそれをネタに人に絡んできたりする人物がいたりするのだが、こういう事象が世にそうあるわけではなく、この作家は文体は伝統的なリアリズム小説のそれかもしれないが、より小説的リアリズムを追及していると思う。でなけりゃ退屈で読んでられないからね。ほんとうにリアルなものがあるだけでは。
それと今作も前作で見られた人物描写、心理描写の寸止めの魅力は健在で、決して深く詳細に語らない。しかし、同時に確かにそれはある、と感じさせるのだ。たとえば一度抱いた女性が別の男性と駆け落ちを企てて云々という話を主人公は聞きながら、しかもその男性は主人公が知る人物でありながら、そのことへの感慨、女性への未練的な思いや、男性への敵意まじりの思いはどこにも記述されない。しかし、それはあるんだろうなあ、と思う。ラスト近くになって主人公がやや突拍子もない行動に出て、読者が主人公のなかに描いていた「ある」の根の深さを知るのだが、こういう手法が、上手いというか。ま、好みにかかる部分も大きいのかもしれないけど。
もうひとつの大きな魅力が、この人の小説を読むと、そのことでなんか別の世界を知ることができる、広げられていく快感があって、今作では釣りの話から入って、淡水魚の世界や、養殖問題、と、どこまでが本当か知らぬものの、この世界まだまだ知らない事がこんなにあるんだなあ、と。
自然科学書を読めばいいじゃん、て話になるのかもしれないけど、違うのですよ。ここに文学とそうでないものの違いが如実に出るのだ。ただ伝えることだけを目的にしたような文章では決して興味を湧かせることが出来ないような自然科学的事象が、魅力的な文章で綴られるとこんなにも自分のなかに入ってくるというのは、凄くないか?これが文学、内容ではなく書くことを対象にした学問、芸術の醍醐味でなくて何よ、という。たとえば音楽で、メロディが楽しみなら、オルゴールの自動演奏でもいいだろう。しかし、私は人に演奏してもらいたい。
もしかしたら、いやあるいは確実に暫くたてば、この小説に描かれた淡水魚の交配の事など忘れてしまうだろう。しかし、世界が広くあり、退屈などしないものとしてあるということを感じさせてくれるだけで、それだけで良いのだ。このクオリティを維持してしまうと数ヶ月に一度になってしまうのかもしれないから、もっと他にもいて欲しいのだけれど、こういう小説家が作品を発表してくれるだけで、そうそう自ら死ぬことなど想起しなくなるんだけどね。