『会話のつづき−ロックンローラーへの弔辞−』川崎徹

高原氏などより余程「あの時代」の中心にいた川崎のほうが、今とあの時代、というふうな言及の仕方をしていてもおかしくないとは思うのだが、本人がいち早く世間に先走って枯れているだけで、あまり他人へは意識を向けないんだなあ、という。台風が中心で無風であるかのように、中心のものほど体験などしていなかったという事だろうか。
しかし某芥川賞作家のみならず、この人もあの人に入れ込んでいたとはね。いや別にあの人のことはここで何回かDISったからもういいや。
他に印象にのこるのは、猫の被害を訴える人をモノのごとく松竹梅の松に分類したり、警官にたいして意固地になったり、葬儀へ向かう列へ敵意を向ける人をわざわざピックアップしたりと、いっけん枯れているようにみえて、激しさと悪意をまだ持っているということ。以前の作品にはあまり無かった要素である。ある程度普通に生活している人には冷淡なのに猫やホームレスはやたら世話をしたがるというこの心性には、過激な環境保護団体の人に似たとまではいかないけど、倒錯めいたのも感じる。むろん、こういう人も世の中にいてもいいんだけどね。でも、ならば何のために文学なんかやっているのかな、とは思うな。