『遍歩する二人』高原英理

絶賛はしないが、この号の群像のなかで一番面白かったかも。ここ最近の純文学には、昨今の不況が暗い影を落とすどころか、それに明確に言及するくらい影響を受けている作品が多いのだが、その中でも出色かもしれない。
もしこれが、失職しかかった学習塾講師と、首になってしまったのにまだ昔の教室に責任感をもって出社してくる変人講師が出てくるだけの話だったら、それはそれで面白いだろうが、ただ現状を描いただけの救いのない話になってしまう。
日本人なのにリーだのミーだのとバカップルな感じだが、あくまで、この二人の一風変わった交流のなかで救いのない学習塾の現状が言及されるというスタイルをとることにより、角田光代が言及した編集者の話ではないけれど、この作品には、希望の無さのなんとかその先へという意思が感じられるのだ。
星野智幸の『俺俺』という作品が、救いのなさを、とことん救いのないところまで押しやることで向こう側への世界を現出させたとすれば、この作品は、造語をもって世界を捉えなおすことに象徴されるように、エアポケットのようなところから救いの無さを相対化しようとするかのようだ。もちろん、エアポケットと表現したように、ポケットでしかなくエアになりようのないものかもしれないが、自殺するよりは良いではないか。少なくとも、この作品により、「いま・ここ」が僅かなりとも揺らぐ。