『蜩の声』古井由吉

最初、霧がどうだとか、何を書いているのかさっぱりつかめないと思っていたら、マンションのリニューアルですっぽりかぶさってるのをよく見かける覆いのことだとは。
と、そこを過ぎるといつもの作品にも増して平穏な作者自身の日常といった感じの短編。
高所で作業する現場の人が、疲れているのに体が妙に軽くなり、しかし後で振り返って、自分が危険なところで楽に作業していた姿を思って、身がすくむようになり苦しむ、というのはいかにも古井作品らしいところ。意識しないでただ生きている自分がいるのは分かっているのに、世界は意識=言語化することによってしか掴まえられない、そのギャップ。この作業員の話が本当の話か作り話かは分からないけど、説得力があるんだよね、いつもながら。で、その説得力は、優れた小説によって小説化することによって生まれている。
たとえば、古井作品がなかったら、こういう事がもし現実にあったとして、けっこうやり過ごしたりするんじゃないだろうか。とくに私のような鈍感な人間は。