『作家の超然』絲山秋子

この小説の主人公の作家も北関東に住むことから、つい絲山本人に重ねてしまい、なるほどこういうきっかけなんだ、と思ってしまったりするのだが、いくらかのフィクションは当然含むだろうものの、あながちこういう読み方はまちがってないんじゃないか、と思う。
つまりはそれくらい、この作家が超然とせざるをえなかった切実さがより切に感じられるからで、リアルであればあるほど、主人公が作家だけに、リアルの作者自身に重なってきてしまう。これは決して悪いことではなくて、仕方のないことなのだ。
作家になる所から、書き続けている今までの様々なエピソードを綴ったものなので、とくにストーリーがあるわけではない。だから一度読んだあとで、途中の箇所どこでも読み返して楽しむことができる。ちなみに「新潮」のこの号は、いつでも取り出せるところに置くことに私は決めた。
しかし作家であり続けるというのは、とんでもないことなのだな、と思う。私のこのようなブログの雑音なんて取るに足らないくらいに、超然としなければやっていられない事が多い。(といって、わたしがここで自分を免罪するわけではない。)
なかでもいずれ文学がなくなる事にたいしてまで超然とせざるをえないという最後のページは感動的だ。どこか。
「いいシャツの肌触りや、井戸水ののどごしや、」と心地よい情報を並べるところだ。ここに、「踏み込んだアクセルの反応」とあるのに何にも増して嬉しくなるが、それは別としても、ここに並べられた心地よさの適切さに、心地よい「情報」は消えても、心地よさまで消えてたまるか、と思う。消えないと信じたい。信じるからこそきっと、超然と出来るのだろう。